【連載小説 第27話】初対面の小学生女児から「お父さんと結婚して」と言われた35歳、無職。
●第27話 墓参りするお父さんにちょっかい出すお母さん
「じゃあ先出るね。いってきます」
「いってらっしゃい」
まつりが働き始めて数日が経った。しばらくは研修などで横浜の本社に通いながらの勤務。3人の中で一番遠い場所へ行く彼女が、一番最初に家を出るのだ。
真冬と駿はこれまで通り、8時ごろ一緒に家を出て、まつりが住んでいたマンション前の公園で別れた。真冬は元気よく「いってきまーす」と登校する。
それを見届けた駿は駅へ――行かなかった。仕事用の服装のまま、元来た道を戻っていった。
と言っても帰宅はせず、マンションの駐車場へ。仕事用リュックの前ポケットから車のキーを取り出し、シエンタに乗り込んだ。
彼は今日、二人に内緒で有休をとっていた。
そして向かう先は、このみの眠る公営墓地。両親は娘の遺骨と孫を北海道に引き取ろうとした。しかし駿は、自分が真冬を育てたい、北海道に帰るつもりはないから真冬のために墓はこっちに作りたいと、二人を説得したのだった。その代わり、墓は駿が用意し、位牌は両親に託した。
と言った割に、命日にしか訪れない。命日でも、一連の作業をこなすだけの滞在。もうこの世にいないこのみを思うと、辛かったからだ。
そうした中、まつりが現れた。不思議な話だけれど、彼女と向き合うことはこのみと向き合うことにつながった。
大好きだけど逃げてきた。彼女への永遠の片思いを終わらせるために、雨が降りそうで降らない梅雨の平日、駿は一人で会いに行く。
このみに。
◇◇◇◇◇
ラジオも音楽もかけない。窓も締め切り、弱クーラーの音が耳にざわざわと伝わる。
駿はおそらく初めて、静かな車を運転している。だいたい真冬がいたし、最近はまつりも一緒で、車は彼の生活圏の中でも賑やかな空間だった。でも今はたったひとり。一時間弱の短くて長い時間を駆けた。
墓地近くのコンビニに寄り、仏花と線香、ライターを調達した。それらを助手席に積み、コンビニの前でホットコーヒーを飲みながらスマホの通知を確認すると、まつりから<横浜美味しいお店いっぱいあるから引っ越そうかな~>というメッセージとかわちいの笑顔スタンプが届いていた。
冗談なのは百も承知だけれど、「好きだないじめ……」と呟きながらブラックコーヒーより苦い顔をする。
まつりは最近、ちょいちょい駿にいじわるをする。まなみが姉をからかって楽しんでいるように、まつりの対象は駿。身内に何かあれば恐ろしく狂う才能も見出し、似た者姉妹であることは薄々見えてきた。小林は日常的に暴れていそうなまなみと、どう付き合っているのだろうか。患者とバトルになったりしないのか。今度聞いてみようと思った駿だった。
ただ、駿に気を許しているからこそのいじわるである。それは理解しており、ほほえましくもなる。早くまなみの呪いが解ければ、もっと気を許しあえるだろう。悪魔の妹が憎くもあるが、このみの墓地へ訪れるきっかけをくれたのはその悪魔であった。
「根は良い人なんだけど」と悪魔へ苦言。駿はコーヒーの残りを喉に流しいれ、カップをコンビニ店内のごみ箱に捨てた。
コンビニから墓地はほんのわずかな距離だった。お盆でもなんでもない上に平日の、すかすかな墓地の駐車場に車を停めた。
墓地は広い公園のようになっており、近隣住民の散歩コースにもなっている。墓の場所は30ブロックに区切られており、彼女の眠る場所は真ん中より少し先のあたり。ちょっとしたウォーキングである。ぽつりぽつりと犬の散歩などの人がいるのみで、貸し切りのようなケヤキ並木の中を駿は歩いた。
歩きながら、このみとの関係を考えた。仲の良い姉弟関係を壊したくなかった駿は、必死にこのみへの気持ちを隠していたが、彼女は感じていた節があった。おそらく決定的だったのはマンションの購入だ。当時の様子を思い出す。
『来月引っ越すよ』
『どうしたの急に』
『マンション買ったんだ、埼玉に。中古だけど』
『まだ就職したばかりじゃない、騙されたんじゃないの? 断れないの?』
『騙されてない。このみと一緒に真冬をきちんと育てるためだよ』
『……この先、一緒に生きていきたい人ができたらどうするの……?』
『できないよ、そんな人。俺は2人のために生きる』
なかなかこのみへの感情を口に出せなかった駿にとって、お金を掛けた「気づいてほしい」というサインでもあった。当時、このみの表情は「驚き」に見えたが、思い返すとそう単純な感情ではなかっただろうと駿にもやっと、分かりかけてきた。あの時から、少し、駿との距離が遠くなったように思う。
今になって、彼女への気持ちをしっかり伝えればよかったのにと後悔する。真冬のことで精神が不安定なのに察してほしいなんて、彼女の心身の負担を考えていなかった。姉への甘えでもあり、拒否されたら怖いという心の弱さからきた失敗だ。
ふと、駿は考える。あのまま自分の気持ちをこのみに伝えずに暮らしていたら、どんな生活だったか。
真冬を愛せないままだったとしたら、そのうち娘を置いて家を出たかもしれない。
真冬を愛せるようになったら、母娘二人で自立したかもしれない。
次第に駿の気持ちが負担になってに出ていったかもしれない。
このみに良い人ができて出ていったかもしれない。
いくら考えても、3人一緒のシーンが描けなかった。
生きていても永遠の片思い。では伝えていたら?
弟以上に思えない。
そう言われただろう。上京して一緒に住んでくれたのも、弟だから、美大でお金が大変だから。このみと思いが通じ合わないことは、出会った頃から知っていたような気がしてきた。
下を向いてとぼりとぼりと歩き、仏花の花束を強く握る。包装のビニールがくしゃり、と音を立てる。
成就しない願いを抱き続けてきたのは、時間の無駄だったのか。このみに思いを寄せなければ、違う人生があったのだろうか。でも優しく美しいこのみを思い出すと、そうは考えたくなかった。ではこの感情は何のためだったのか。
まつりの言葉が蘇る。
――このみさんが好きだったから、娘として愛情を注げたんだよ。
そうであるなら、可愛い姪で大好きな娘のために自分は生まれてきたと言える。このみに思いを寄せたことで、真冬というかけがえのない存在に出会え、真冬を育てたことで、生涯を共にしたい人にも出会えた。
まつりのおかげで駿の冷え始めた心に火が灯り、このみへの気持ちがすべて肯定された。
立ち止まり、前を向いた。
「大好きだ―!!」
大声で叫ぶと、たまたま目の前を、透き通るように真っ白い髪の女性が通った。腰は軽く曲がり、手には仏花を持っている。
「あらやだ、私に告白? 私には夫が」
「ちちち違います、その……す、すすすすきな」
「だったらお墓で叫んでないで、ちゃんと本人へ伝えなさい。伝えたい時にはいなくなっちゃうかもよ」と、目の前の墓地区画に入っていった。
確かに、このみはいなくなった。もう伝えられない。駿はこのみの墓がある区画へ走っていった。
似たような墓石が並ぶ芝生の中を迷わず走り、駿は目的の墓石の前に立った。墓は駿の腰ほどの高さで、横長の長方形の石にト音記号と鍵盤の模様が彫ってある。
駿は芝生に胡坐をかき、息を整えてからこのみに語りかけた。
「久しぶり。初めて一人で来たよ」
もちろん、故人が返事をするわけはない。駿は一人、続ける。
「俺、このみのこと大好きだ。覚えてないくらい、初めから。血は繋がってなくてもお姉ちゃんだし、俺って弱いから告白するの怖くて。ずーっと黙ってた」
仏花を芝生の上にそっと置く。
「今でも大好きなんだよ。優しい顔が浮かぶんだよ。友達が少ない俺と遊んでくれた時、手を繋いでくれた時、スキーが苦手な俺に付き合ってくれた時、こっそり家を抜け出して、夜道を歩いた時……このみが上京して、本当につらかった。毎日一緒にいた大好きな人と、会えなくなるんだもん。東京の大学に行ったのはこのみに会いたいから。それ以上の理由はなかった。真冬を育て……」
駿は頭を掻きむしる。
「真冬の父親、誰か聞き出せばよかったなあ! まなみさんや信一さんみたいに、そいつ半殺しにすればよかったんだ。なんで俺ってそういう勇気無いんだろ。そしたらさ、真冬のこと愛せた? 夜に泣いたりしなかった?」
無言の墓石から、声が聞こえた気がした。その人たちは誰、と。
「二人は最近出会った血の気の多い人。そうそう、二人に出会ったのはさ、まつりさん……」
胸のあたりが温かくなってくる。
「一緒に生きたい人なんてできないっていったのに、できたんだ、俺」
リュックからスマホを取りだし、墓石に向かって写真を見せた。リビングのソファで、真冬とまつりがゲームのコントローラーを持ってポーズを取り、笑っている姿が写っている。
「佐藤まつりさん。俺より年下に見えるでしょ? でも、年上。童顔なんだよね」まつりが憧れたあのまなざしで、駿は彼女を紹介する。「真冬が突然、生理になっちゃって。それを助けてくれたのがきっかけで出会ったんだ。このみの娘が引き合わせてくれたんだよ、俺とまつりさん」
駿の語りに熱がこもる。
「ねえ、このみ。まつりさん、真冬のお母さんになってくれたんだ」
弱い風が、駿の頬を優しく触った。それは、このみのピアノを弾く、細くて長いあの指が、駿の顔を包み込んでいるようだった。
「まつりさんなら、このみの分までお母さんになってくれる。真冬を素直で良い子に育ててくれる。真冬を愛してくれる。『安心』して」
まつりは安心できる、信頼できる。この気持ちとこのみへの気持ちが異なることに悩んだこともあったが、自然にでた「安心」に悩む箇所はなかった。まつりは、駿、真冬、そしてこのみにとっても「安心できる場所」「信頼できる人」。
「あー、俺もまつりさんの安心と信頼になれるかな」
駿は芝生に寝転がった。曇り空が視界いっぱいに広がっている。また、そよ風が吹き、駿の体をなぞる。
「そうだな、なるんだよ。なればいい」勢いよく起き上がり「このみのこと守りたいって思ってたくせに、守れる人間になろうとしてなかったよ。どっかで、真冬がいるからこのみは俺を必要としてるだろうって考えてた。それってなんか……すごく失礼だった」正座して芝生に手をつき「俺の一方的な片思い、気づいてたんだよな。重かっただろ。特にマンション。押し付けてたなあ、もうそれはいろいろと」頭を下げ「本当にごめんなさい、本当にありがとう……」
ゆっくりと頭をあげ「ありがとう、お姉ちゃん」
そして立ち上がり、墓石を見下ろす。
「命日、3人でくるよ。俺と、真冬と……まつりさんと」