【小説】神社の娘(第30話 橘平と桜、向日葵と葵、何も「ない」)
東北地区の山に、青白い閃光が轟く。
「橘平君のおかげだな」
葵が穏やかな笑顔を向けた。
◇◇◇◇◇
土曜の朝8時30分。7時ごろまでぽつぽつと雨が降っていたが今は止み、曇り空が広がっている。
橘平は葵の黒い乗用車に乗って、彼の職場である村役場に来ていた。今回は直接、家での待ち合わせではない。以前、向日葵と待ち合わせた近所の公民館前で葵に拾ってもらった。理由は、朝早くて母の支度が間に合わないかもしれないと思ったからだ。後から考えれば、まだ暗いうちから起きてヘアメイクを済ませただろうけれど、説明も面倒なのでこれでよかったのだと橘平は納得している。
村役場は、築60年は過ぎているだろう鉄筋コンクリートの建物。壁は縦に流れる黒ずみがあらゆる箇所で目立ち、汚れも多く見受けられる。造られた当時のまま、特に補修も塗り替えも行われなかった姿で、橘平の目の前に存在している。夜に一人で入るには勇気のいる古さだ。
橘平の記憶では、村役場に入ったことはない。もしかしたら小さいころ、母に連れられてきたことはあるかもしれない。けれど覚えていないのだから、物心ついてから数えれば初めてだ。
鳥の鳴き声以外に聞こえない役場の玄関前。橘平と葵は互いに話すことなくそこに立っていた。
5分ほど経った頃、見慣れたピンクの軽自動車がやってきた。曇りの背景にまぶしい色だ。
「お、向日葵さんだ」
金髪をトップでお団子にまとめた向日葵は、駐車場に車を止めて降りるや否や、元気よく走ってきて、「おはよー!!」橘平を勢いよくぎゅーっと抱きしめた。
「おおおおおはようございます。いてて、怪力怪力」
「おっとごめん。はい抱きしめ直し~」ゆるい力で抱きしめ直し「かわいいね~」と橘平の髪の毛をわしゃわしゃしていると、葵が「じゃれてないで早く入るぞ。遅刻して」とぶっきらぼうに言い放った。
「ごめんごめん、休日で油断した。あ、葵おはよ~」
「…おはよう」鍵を開け、さっさと役場の中へ入っていった。
役場の中は、当たり前だが誰もいない。彼らの足音のみが反響する静かな空間。外壁は黒ずみが目立ったが、中の壁は20年ほど前に塗り直した程度の黄ばみを感じた。まだマシである。
廊下を進み、彼らの職場である環境部の部屋へ着いた。部屋の右側は野生動物対策課、左側が自然環境課の島だ。各課の壁際やドア側の壁にはロッカーがあり、そこに日本刀など妖物駆除に関する道具、本物の対野生動物用の道具が格納されているという。
向日葵と葵はそれぞれの席にカバンを置く。橘平は向日葵の隣席に案内された。
「いつもは蓮君が座ってるんだ~」
橘平は躰道の稽古で蓮とは顔見知りとなっており、「小柄のすばしっこい人ですね」おおよその姿は浮かんでいた。
「きっちゃん、汚れていい服持ってきた?」
「はい」
橘平はリュックから中学時代の小豆色のジャージを取り出した。現場は山の中なので、汚れていい服装を持ってくるよう言われていたのだ。
「なっつかしー!私も着てたやつじゃーん」
「そのころから金髪っすか?」
「なわけないでしょ!黒だよ!真面目だから金にしたのは高校生から!」
それって真面目か?と突っ込みたくなったが我慢した。
「ほらこれ」向日葵はスマホのアルバムを見せてくれた。真っ黒でぎゅっとしたツイン三つ編みの少女が写っている。
別人だった。
誰だろうと、橘平は少し考えてしまったほどだ。髪を下ろしている写真もあった。
橘平は「黒髪ロングの方が似合う」と感じたが、胸の内にしまった。桜から黒髪時代があったことは聞いていたが、金髪だからこそ、今の向日葵なのだ。写真の少女は人生がつまらなそうだったから。
向日葵はトートバックから、葵はロッカーから、上はベージュ下は紺色の作業服を取り出した。
「ほいじゃ着替えましょ。きっちゃん、私とお着替えする~?」
じっと向日葵の顔を見る橘平。おちょくりの質問のはずが、何の反応もなく、向日葵は滑った気がして身の置き所がなかった。
向日葵が冗談だと言おうとすると、橘平は「向日葵さんが葵さんと着替えれば?」真顔で返した。
「はあ!?」
「俺よりそっちのがいいでしょ」
「な、何を」
「じょーだんっすよ!葵さん、更衣室どこですかー?」
橘平は葵とともに部屋を出ていった。
一人残された向日葵は、恥ずかしさと橘平にからかい返された悔しさがごちゃ混ぜになりながら、叫びたいのを我慢した。
◇◇◇◇◇
男子更衣室は課を右に出て、3つ隣の部屋だった。女子更衣室はその隣だ。広さにして6畳ほどだろうが、ロッカーと簡易シャワー室、丸椅子が3個あり、実際よりも狭く感じる部屋だった。
葵はグレーのクルーネックセーターを脱ぎながら、「向日葵にからかわれても、あんまり動じないんだな」
「あはは、向日葵さん、俺で遊ぼうとしてるのバレバレなんですもん。からかい返さないと」橘平はジーパンを脱ぎながら答える。
ただの優し気な少年かと思えば、実はいたずら心もあるという、お茶目な一面も持ち合わせている。なかなか面白く見どころのある子だと葵が感じていると、「葵さんがさっきの質問されたら、なんて答えるんすか?」と尋ねられた。
「……え」
「うへへ、答えなくていいですよ!」橘平はジャージの下を履き、パーカーを脱ぐ。「即答できないってことはあれっすね。意外とスケベっってことですね~。一緒に着替えてナニするつもりですかねえ」
いたずら心を自分に向けられた葵は、仕返しがしたくなった。が、それでは器の小ささを露呈していると思い至り、黙って作業服の上着を羽織った。
◇◇◇◇◇
着替え終わって戻ると、早速、課の電話が鳴った。
相手は今日の感知当番、二宮課長の父親。東北地区の山に妖物が出現したという知らせだった。
3人は公用車の白い乗用車に乗り、現場へ直行した。運転は葵、二人は後ろに乗っている。
一応、からかわれたことを自分の中で清算した向日葵は、橘平に「お守り書いて」と手の平を差し出す。
橘平はお守りの効果について、まだ半信半疑である。桜から先日の電話で聞いたけれど、すべて平凡な自分が有術を使えるなぞ信じられなかった。
武道を習い始めたが、まだまだ、桜を守れるほど身についていない。走るのは得意だが、「なゐ」から逃げられるほど速いか分からない。橘平は葵や向日葵のように特殊な力も体術も持ち合わせていない、「役立たず」の自分に引け目を感じていた。
自身の有術になのか、お守り自体に効果があるのか。どちらかは判別できないまでも、今日はその効果を自分の目で確かめられる絶好の機会。効果があるというなら、みなの役に立てるかもしれない。その期待を胸に、橘平は彼らの仕事に同行していた。
田園風景と家並みが続く中、お守りを描く様子をミラーで見た葵は「実は」と、先日、一人で妖物を駆除した時のことを語り始めた。
「ええ、そーだったの!?初めて聞いたんだけど」
「初めて話したからな。今日、2人に伝えようと思ってた」
「はあ、なんか、お守りってすごいんすね……」
桜だけでなく、葵も同じような効果を感じたという。橘平は桜を疑っていたわけではないけれど、だんだんと、八神には特殊な力があるかもしれないと信じ始めていた。
橘平が難しい顔をし始めたところで、向日葵が話を変えた。
「そうそう、きっちゃん。躰道来てくれてありがと。けっこー筋いいじゃん」
「そっすか?やった。武道って、桜さんを守るのにすごく役に立ちそうな気がします」
「結局始めたのか」
「はい。あ、桜さんから聞いたんすけど、葵さんもやってるって」
「基本は剣術の方だけど、そっちも行けるときにな」
木刀もかっこよかったが、道着姿で戦う姿も見たい。
そう思った橘平は、おねだり心を持って聞いてみた。
「そのうち、葵さんも稽古来ますか?」
「……そのうちな」
「え、え、じゃあ向日葵さんと試合します?見たい!!」
向日葵が手を叩き、大きく口を開けて笑った。
「いいね、しようしよう。葵くーん、今度私と試合ね」
その言葉に葵は無言だった。向日葵はにやっとし、橘平に腕を絡める。
「男の人たち、だーれも私に勝てなかったでしょ?」
向日葵の表情と行動から、葵をけしかけようとする意図が伝わった。
橘平も向日葵とがっつり腕を組む。
「うんうん、向日葵さんめちゃつよですよね!」
「そー、めちゃつよなの~アオにも『圧勝』するから見てて~」
「あれ~前互角って葵さん、言ってたよな~」
「ワタシのほーが強いって言ったでしょ」
「やっぱそーなんすね」
「素手じゃあ私に絶対勝てないの、葵くんは!」
言われっぱなしに業を煮やしたのか、葵が口をはさんだ。
「互角だよ互角!」
どーだか、と向日葵が鼻を鳴らすと、ちょうど現場に着いた。
車から降りると、葵はメガネを外し、ケースから日本刀を取り出した。
前回もそうであった。日本刀を手にするとき、葵はメガネを取る。桜も神社を壊すときなど、メガネを外していた。
これはなぜなのだろうか。橘平は山の中を歩き出した葵に後ろから質問した。
「一応、俺は人より有術の能力が高いんだ。そのせいか、勝手に普段から力が漏れてしまって。自分でも調整はできるけど、その調整に気を使って疲れるから、特殊なメガネで抑えてるんだよ。有術を使えないほど疲労すれば、調整しなくてもいいけど」
このメガネには相手を静止する有術が込められているという。その能力で、葵の能力を抑えているということだ。
「そーいや、向日葵さん、有術では葵さんに勝てないって言ってましたね。葵さん、有術はめちゃつよ、と」
「そーだねん、そーいうこと」
「力が漏れると、どーなるんすか?」
「例えば…食事中に箸が口に入っただけで血が出たり」
「まじでっ!」
「子供の頃、実際にやったことあるんだよな…」
その時のことをありありと思い出しているのか、淡々とした口調の中に痛みを感じた。
「救急、車?」
「父親が治療の有術が使えるから、すぐ治してもらった。有術の負傷は有術でしか治せないからな」
「へえ……今は仕事だからメガネいらないってことですか?」
「そう。今は有術を思い切り使わなきゃいけないから、調整する必要無しってこと」
「もしかして、桜さんのメガネも?」
「そーなの。実は、さっちゃんもめちゃつよなの」
「瀕死の葵さんを一瞬で治してましたもんね…えっと、葵さんはその状態で物を触ると武器になっちゃう、じゃあ人は?」
「人には俺の有術は流れない。例えば」
と、葵は前から橘平の左手首をつかみ、少年の右手を自身の肩に置いた。橘平は思わずびくりと体が震えた。
「何も起こらない」
「へー。じゃ、逆に俺から葵さんに触っても大丈夫ですか?」
「うん、試してみたらいい」橘平の手首から手を離した。
橘平は大丈夫とはわかりつつも、恐る恐る葵の手を握った。何も起こらない。ただ、葵の手がひんやりしているだけだった。
「うおお、何もないぞー」
ぶんぶんと、橘平は葵の手を振る。葵は橘平の手を抑えて振りを止め、握った手も引っこ抜き、前を向いて木々が茂る山の中をずんずん歩いていった。
「は!怒った!」
「怒ってないよ。めんどくさくなっただけじゃん?」
向日葵は隣を歩く橘平の手を引き、葵の背についていった。
◇◇◇◇◇
山の中はしんと静まり返り、危険な化物がいるとは感じられない。橘平と向日葵の雑談以外に、気になる音もない。
しかし、この辺だとされるポイントに着くや、急に周囲の空気が変わった。
彼らの目の前に妖物が現れた。目が顔の半分はあり、口がない、そして通常の3倍の巨体を持つヒグマ型だ。目が鋭く光り、巨大な体がゆっくりと動き出した。
「きーちゃん離れて!」
その声と同時に、橘平は走ってその場から距離を取った。比較的太い木の裏から見守ることにした。
ヒグマは彼らの姿を認めるや、地面を思い切り叩いた。すると、大量の土が噴きあがり、目の前が見えなくなった。
向日葵は見えないながらも感覚で走り抜ける。土を感じなくなったところで振り向くと、ヒグマは葵を追いかけていた。向日葵もそのまま、ヒグマの背を追う。
葵は懸命に走るも、距離はどんどん詰められていった。近場の木を利用して蹴りあがりヒグマに日本刀を振り下ろすも、ヒグマは片手で刃を受け止めた。
有術を最大限に出力し、つばぜり合いになりながらも、葵はヒグマの手を溶かしていく。だが、それだけでは致命傷にはならなかった。
その間に、向日葵がヒグマに追いつき、後ろから転倒させた。
葵は刀を振り上げたが、ヒグマは草と土の上をさらに早く転がって刃を避けた。起き上がって葵に襲い掛かる。
すると向日葵が素早く葵の前に躍り出て、橘平のお守りが書かれた手のひらをヒグマに向けた。ヒグマは向日葵たちに襲い掛かりたくも前に進めず、手を宙にかいている。
この状況を見ていた橘平も、妖物の動きにおかしさを感じた。向日葵がお守りを描いた手を前に出した瞬間、これ以上進めなくなっているように見えるのだ。
「葵!」
向日葵の背から抜けた葵は、ヒグマの背後に周って胸のあたりから水平に真っ二つにした。
日本刀から放たれる、青白くまばゆい光が周囲を照らした。
橘平の目の前でヒグマが溶けていく。
「これが、村人が知らない日常……」
橘平は最初、これよりも巨大で恐ろしい、動物の形ですらない鬼のようなバケモノに遭遇した。あれで終わりだと思ったし、何も知らないからこそ、勇気を出せた。
しかし橘平は妖物について、封印について、悪神について、いろいろ知り始めてしまった。
これが日常となるとどうだろう。葵も向日葵も、何も知らない一般人たちのために危険な日々を送っている。ここから彼らを解放するのが桜の目指すところならば、橘平ができることは何だろうか。
向日葵が駆けてきた。
「きっぺーちゃん、大丈夫だった?」
「俺は全然!お二人こそケガとか」
「私はないよん。汚れただけ」
日本刀を鞘に納めながら、葵も橘平のほうへやってきた。
「葵さん、ケ」
「橘平君のおかげだな」
葵が穏やかな笑顔を向けた。
「え?お、俺は何にもしてないですよ。見てただけで」
「いいや、君の描いたお守りはやっぱり『有術』だ」
葵の言葉に橘平はほんの少し、自分に希望を見出した。役立たずでもみんなの役に立てるのかもしれない、と。
橘平のお守りは特殊能力らしいことが実証された。実際に使用した二人の感想や、自分が見たこと、桜の話を総合すれば、ほぼ確定である。
葵は課長の父親に駆除終了の連絡をし、3人は車に戻るため歩き始めた。
「知らなかった。お守りって超能力の類だったのか」
「魔方陣というのか、何かを書いて発動させる有術自体が他にないからなんとも言えないんだが、お守りだけの力じゃないと俺は思う」
「じゃあやっぱり……」
「きっぺーも有術者ってことねん」
そうは言われ、お守りの力を見たところでも、まだ橘平には自身のことが信じられなかった。お守りを書いている時に、体や心に変化はなく、超能力を使っている自覚がない。
「父さんやじいちゃんも使えるのかなあ。でもそんな話は」
「可能性はあるよね。お父さんもおじいちゃんもおじさんも、手先が器用だわ」
「手先が器用なのと有術、関係あるんすかね」
「わかんないけど。似てる技術を持ってるってのがさ、八神家のキモなのかな~って思ったの」
「あくまで推測でしかないから、八神家の他の人については、これから探っていく必要があるかもしれないな」
橘平は太い木の根をまたぐ。
「家帰ったら父さんたち観察してみるっす。おかしなところないか」
「ありがとう。で、橘平君が有術を使えるとわかったところで問題なのは、この能力をどう扱うかだ」
現代では一宮、二宮、三宮の血筋の者しか使えない有術。別の家の者が「使える」ことが彼ら以外の人間に知られた場合、どのように扱われるのかが分からなかった。
各家に伝わる有術は、その家代々の能力もあれば、使わなくなった他の家から受け継いだものもある。今となってはどの能力がどの家のものだったのかは、分からなくなっていた。
「もしかして八神って、一宮家に有術を渡さなかった家なのかなあ。え、ってか渡さなかったとかできるの?何も言い伝え聞いたことないな!?うわ、謎が多すぎ八神家!!何!?」
「いや俺が知りたいですって!うちに大げさなヒミツなんてあるとは思えないし……」
橘平の持つお守りの能力。彼らは聞いたことも見たこともない。
未知の力があると一宮そのほかに知れた場合、
「歓迎されるか、排除されるか、それともいいように利用されるか、どれだろうな」
その点が悩みどころだった。
「いいように利用されそうなんだよなあ。いっちゃん可能性ありそ。だってさ、すっごい使えるもん、このチカラ」
「そんな使えるんすか?」
「うん、駆除、めちゃ楽になると思う」
「誰かの役に立つなら使いたいです」
「いやいや、ほら、未成年の子も手伝わせる話、したでしょ?バレたらきっちゃんも投入されちゃうかも。それは嫌」
向日葵が一番危惧するのはそこだった。もう巻き込んでしまっているとはいえ、妖物とは何の関係もなく育った彼を仕事にまでは巻き込みたくはなかった。
これだけの能力だ。仕事関係の差配は優秀な課長辺りが便利に使い倒すような気がしてならない。向日葵と葵も彼を利用しているかもしれないが、他の大人よりは、橘平を大切にする自信はある。
「確かに、みなさんのお仕事に関わると『なゐ』のこと調べる時間も減るし、もしかしたら調べてることもバレちゃうかもしれない。それってみんなに迷惑かけちゃうなあ。それに」
あと一歩踏み出せばアスファルト。その手前の土の上で橘平は立ち止まる。すでに山を抜けた向日葵と葵は、少年を振り返る。
「こんな能力があるって知れたら、八神家のみんなはどうなっちゃうんだろう。じいちゃんや父さん、おじさん、みんな……一宮の人に悪く言われたりするのかな」
能力が明るみに出ることで、桜たちには迷惑がかかってしまうし、家族は一体どんな扱いを受けるのか。橘平はそれが気がかりだった。
「俺一人が何か言われたりされたりは平気だけど……家族はな」
橘平はアスファルトと山の境界に視線を落とす。土で汚れた運動靴の上を、蟻が歩いている。
家族や周りの心配をする心優しき少年の様子を、向日葵と葵はしばらく見つめていた。
「……取り合えず、橘平君の能力はバレないようにしよう。俺らも便利だからといって、普段の仕事には絶対使わない」
「うん、使わない」
「ええ、お役に立ちたい」
「ダメダメ、使い過ぎたらバレるでしょ」
向日葵は橘平の背を押し、山から出るよう促す。
彼らは車に乗り込み役場へ戻ろうとした。ところが向日葵のスマホに妖物出現の知らせが入り、そのまま急行した。
やっと役場に戻れた3人は、向日葵が作ってきたハンバーグ弁当を食べ、午後に備えた。
午後は4件の駆除をこなした。どの現場でも橘平のお守りを利用してみたが、そのおかげでとてもスムーズに駆除を行うことができたのだった。
例えばヘビ型20匹を相手にした駆除。そう手強くはないものの、すばしこく、集団で襲い掛かるのが厄介であった。だが、その集団のおかげで八神のお守りが功を奏した。向日葵に全ヘビが集結したところで彼女がお守りをかかげると、すべてがぴたりとそれ以上進めなくなった。そこを葵がまとめて薙ぎ払ったのだ。
橘平はすべて遠くから見学していた。実際の駆除には参加できないけれど、自分の力が役立つことが舞い上がるほど嬉しかった。
何もできない人間だと思ってきたが、自分にもできることがあると分かり、多少自信が付いたのだった。
◇◇◇◇◇
終業10分前。橘平が着替えに立ったところで、向日葵は今日の記録を課内共有アプリに入力する葵に声をかけた。
「私も着替えてくるね。そしたらきっちゃん、家まで送ってくる」
「わかった。そのまま帰っていいよ、あとはやっとく」
「ううん、私が戻るまで待っててくれる?話したい事があるから」
「……ああ」
終業時間ぴったりに、向日葵は役場を出て橘平を家まで送った。
◇◇◇◇◇
向日葵が課に戻ると、電気はついているのに葵はいなかった。記録付けは終わったようで、パソコンの電源は落ちている。
トイレにでも行っているのだろうかと考えていると、後ろから300mlの緑茶のペットボトルを持った手がすっと現れた。
「お疲れ」
向日葵は首を後ろに向け「ありがと」と、あったかいペットボトルを受け取る。
「ごめんね、待たせて。橘平ちゃんのことで葵の意見が聞きたくて」
私服に着替えた葵は、向日葵に渡したものと同じ、緑茶のペットボトルの蓋を開ける。
「他人の心配ばかりしてるところか」
「気づいた?」
先ほどの橘平の有術が露見したらどうするか、という話題。橘平は自分の処遇について、全く口にしなかった。心配なのは周囲の事。自分については「俺一人が言われたりされたりは全然いい」と発言していた。
躰道を習い始めた話でもそう。向日葵は橘平の護身のためにと勧めたのだが、桜を守ることに役立つと嬉しそうだった。
彼の論点はすべて他人である。
心優しい少年だ。しかし他の視点からみれば、自分に興味がない、自分を大切にしないタイプの可能性もあった。
この点で、二人は同じことを考えていた。
「橘平君は桜さんと同じようなタイプかもしれない、ってことだろ」お茶を一口飲む。
「うん」ペットボトルを両手に包み、向日葵は自分の席に座る。「家族や友達思いのいい子だな~って思ってたんだけど…いやそうなんだけどね…」
向日葵はペットボトルを手の中でくるくる回す。ふうと一息つき、ペットボトルをぴたりと止めた。
「橘平、桜と同じで、自分が犠牲になって死ぬのはぜんぜん平気系な気がする」
葵は自席のデスクに軽く寄りかかり、ペットボトルを置いた。
「誰かを守りたい気持ちも他人思いの性格も素晴らしいことだけど、自分のことを大事にしないといけない時もあるのよ」向日葵はペットボトルをぐっと握る。「桜のこと全力で守ってとは言ったけど、自分のことも全力で守って欲しいよ」
「確か橘平君、絵が細かすぎて変、だとか言われたんだよな。桜さんは吉野様に並ぶ優れた能力者なのに、菊のせいで認められない」
向日葵は葵を見上げる。
「二人とも、一番の特長を否定されたんだ。だから自分には何も『ない』、自分のことは考えられ『ない』のかもしれない」
「根っこのところが似てるから、お友達になれたのかもね~」立ち上がり、葵の隣に立つ。
「封印を解くには橘平君は必要な人材だ。変に傷つかないように見守ってやらんと」
「なにそれ、きっちゃんのこと物扱いなわけ?」
「そういう訳じゃない」
「今の発言はそうだよ。役に立つからってことでしょ。私はそんなのかんけーないね。あの子が好きだから心配。桜ちゃんと同じなの」ペットボトルの蓋を開け、ぐいっとお茶を飲んだ。
葵は橘平をモノ扱いしたつもりはないけれど、心のどこかで、志を共にする仲間というより「役に立つ子」として扱っているのかもしれなかった。自身の発言を振り返り、葵は深く恥じた。
うつむく青年に、向日葵はペットボトルでこつんと頭を小突く。
「話聞いてくれてありがと。じゃあ帰ろ」
そう言って向日葵は電気を消し、ペットボトルを手に歩き出した。
誰もいないからいいだろうと、葵は薄暗い廊下で向日葵の手のひらに自分の手のひらを合わせる。
葵の冷たい手指が、向日葵のぬるい手の温度を下げていく。
「…こーいうのはダメだってば」
前を向いたまま、向日葵は吐息のような声で呟く。
葵は指を絡めてきた。
「橘平君の有術が」
その言い訳を聞いた向日葵は、葵の手をすぐに振り落とした。
「きっぺーは今日、そんな有術は使ってませーん!!ほら、きっちゃんのこと便利に使ってる、モノ扱いだ、さいてー!」
言い返せない葵は振り落とされた手を引っ込めっられず、宙に浮かしたまま突っ立つ。
「こーいう時の態度が、普段から出ちゃうの。油断しちゃいけないんだから!私たちの間には何にも『ない』の!!」
本当は握っていたかったけれど、あの話題の後に橘平を利用したことに腹が立った。
むしろ、何も言わずに手を握ってくれるだけでよかった。
早足で玄関を目指す向日葵、その後ろを謝りながらついていく葵。一応、玄関を出る直前に向日葵は許し、葵はほっとして家に戻ることができたのであった。