【連載小説 第20話】初対面の小学生女児から「お父さんと結婚して」と言われた35歳、無職。
●第20話 安心に悩むお父さん
久しぶりにこのみと対面し心が揺れる中、まつりと話すことなどできようか。
しかし、真冬に言われて話に行かないわけにもいかない。駿は五分くいらいかけてベッドから立ち上がり、さらに五分ほどかけてやっと部屋をでた。
リビングへの扉の前に立り、取っ手に手を掛けた。すりガラスの向こうには、ソファに座るまつりの後ろ姿が見える。
すると今度は、まつりへの感情が沸き上がる。会いたいな、話したいな、その込みあがる気持ちのままに、駿はリビングへと足を踏み入れた。
「まつ―」
「ごめんなさい!」
まつりは扉の開く音が聞こえたと同時に立ち、瞬間移動のように駿の目の前に移動して土下座した。
「ええ、ちょ、ま、まつり」
「私、引っ越しなんてしないの。する必要なんてないの」
まつりはばっと顔をあげ、次の仕事について説明した。その内容に、駿は拍子抜けした。
「ざ、ざい、たく、在宅……なんで初めからそう言わなかったの?」
「……ちょっと、からかっただけっていうか。反応、面白いから」
駿はその場にへなりへなりと座り込んだ。真実は意外にも軽い。
あれだけ必死に土下座して落ち込んだのに。とも考える駿だが、まつりがいなくなることが、今の自分には耐えがたい苦痛であることの表れと言える。
「こんなにショックうけるなんて思わなくて。だって私たちは……」
「健全なただの他人、だから」
駿は自分で口にし、自分で勝手に傷ついた。そうしてしまっているのは、優柔不断でとろくさい自分の過失である。
まつりが駿を憎からず思っていることは、川越の日からなんとなしに感じるようになってきた。毎夜のアニメ鑑賞時、彼女はちょっとだけ自身の指を駿の指に触れさせたりして、駿も嬉しくて返したりして。たまに指先を掴みあったりして。そのやり取りが、どうしようもなくいい気分になるのだ。どちらとも心を口にはしないけれど、「これって両想いかな~」と駿は楽しんでいた。
油断だった。
ならば、この場で「ずっと側にいてほしい」という気持ちを伝えてしまえば――胸のあたりまで言葉はあがってくるのに、このみがちらつく。
このみへの気持ちを整理するまで、まつりとは健全なただの他人。最近はその境界も曖昧になりつつあるけれど、まだ指先までの関係だ。
「……うん」
普段のお節介焼のまつりはなりを潜め、しおれた花のようになっている。
駿はまだ土下座の格好で床に手がそろえられているまつりの人差し指に、自分の人差し指をちょこん、と付けた。
「俺、か、考え込むほうで、のんびりしてて」
「住む前からそれは感じてる」
「……時間、かかって、ごめん。もう少し、待ってほしくて。そ、その、こ……」このみへの片思いが続いている。ということを、まつりに素直に告白しようと思ったのに、どうしてもできない。「まつりさんとずっと一緒にいられるように……その、うん……」
今度は駿の方が自信なくしおれる。まつりは逆に駿の言葉と雰囲気から「そういうこと」だよなと栄養を得て、しっかりとした口調で話す。
「大丈夫。駿君のペースで。私は長女だから我慢強いの」
福島では勢いもあってすんなりとプロポーズしてくれた彼が、ここにきてまごつく理由。まつりには詳しくわからないが、単純に性格なのだろうか、と自分の中で勝手に解釈する。時間はかかりそうだが、気持ちは伝わってくるし、今のままでも十分楽しい日常だし、急ぐことはなかった。
「ありがとう。ほ、ほんとに引っ越さないんだよね? ヨコハマ?」
この弱弱しい態度とまつりを引き留めようとする子犬の瞳。情けない頼りないけれど、その部分が可愛らしい。いじめたいけど、支えたい。その両極で揺れる不思議な魅力に気が付いてきたまつりだった。
またからかいたくなってきてしまったけど、今日はもうおしまい。そう言い聞かせて我慢する。
「うふふ、ここにいます」
「じゃあ、クラシカ観よう。早く全部見ないと映画終わる」と、駿は立ち上がろうとしたが、まつりが人差し指を押し返す。
「真冬ちゃん抜きなら、池袋のほら、なんか最新のすごい映画館行きたいな」
「あそこでやってるのかな」
「やってるの。調べたの」
「へえ、行く気満々」
「そりゃ……二人でのお出かけだから」
自然と二人で連れだってソファへ座り、テレビをつけ、アニメの続きを観始めた。
やっぱりまだ指先の関係だけれど、今はそれがちょうどよかった。
「まつりさんってさ、どのキャラが好き? やっぱ主人公?」
テレビ画面ではロボット同士の激しくも、宇宙空間という背景の引き出す華麗な戦闘が繰り広げられている。
「ううん、私はライバルの方。主人公、弱虫がだんだんと成長していくっていう王道系だけどさ、素直すぎて物足らないよ」
「どういうこと?」
「裏が無さすぎるじゃん。人間って言ってることと思ってることって結構違うじゃない。こいつもだけど、王道の主人公って表も裏も一緒、っていうかスーパーポジディブ? 苦労はしてるのに闇がないなんて……嘘だよ」
駿はまつりの思想の一端に触れ、意外にも思えたし、まつりらしいとも感じた。
「でも、ヒロインにはそれがいいんだと思う。裏切られ過ぎて、誰も信じられない。でもこいつは裏表がない。唯一、心が許せるから……自由な自分でいられる、安心できる場所」
まつりと二人きりの時。駿はとても楽で、何でも受け入れてもらえる感覚があった。いつの間にか、彼女が自分の「安心できる場所」に、そして、彼女ならなんでも大丈夫だと無意識に信じていると駿は気づいた。
翻ってこのみは「安心できる場所」ではなかった。姉を好きだということを隠しながら接し、成長するほどに、駿は無意識に良好な姉弟関係を保つことに注力していた。好きだとバレたら、このみは自分を避け、もう話すらできなくなるという恐怖があった。姉弟が続く間は、仲良しでいられる。その先を目指したいのに目指せなかった。
それに真冬ができてからは「守らねば」という使命感が駿を支配していた。むしろ、自分を信じて欲しかった。
同じ好きなら、なぜまつりは安心できて、このみは安心できなかったのか。まつりは信じていて、このみには信じて欲しかったのか。
感情は同じはずなのに、どうも、異なる。駿はこのズレに混乱するのだった。
◇◇◇◇◇
「公園で縄跳びの練習してくる」
「あ、私も行く。運動不足解消しよ」
「コストコ行くんじゃないの?」
「10時くらいには戻るよ」
休日の朝。真冬は今度テストがある縄跳びの練習をするため、まつりとともに公園へ向かった。彼女が元住んでいた、あのワンルームマンションの目の前の公園だ。
公園の周りを囲む草木、猫の額な砂場、公衆トイレにベンチがある程度の公園。いつものんびりとした時間の流れる小さな箱だが、休日の朝は止まっているのかと感じるほど、空間がとろりとしていた。
ジャージ姿でストレッチなのか太極拳なのか、じわりと動く運動をする夫人。ベビーカーを脇に置いてベンチに座り、あくびをする男性。たまに横切る地元民。
真冬とまつりは公園の隅の方で軽く準備運動をし、前とびから始めた。運動神経の良い真冬はたんたんたん、とリズミカルに跳躍する。運動神経は悪くないが運動不足のまつりは、リズムは刻めても回数が稼げない。
「えー、もう300回超えたんじゃない?」
まだまだ、飛び続ける真冬をただただ眺めるまつり。すでに疲れているが、次は後ろ飛びを始めた。
二人が縄跳びの練習をしていたその頃。
まつりが元住んでいた部屋の前に、ふくよかな男性と、ヒョウ柄に身を包んだ女性の2人組がやってきた。女性がインターホンを押す。
ピンポン
ピンポン
ピンポンピンポンポンポンポン、ガタガタガタガタ……。
「まなぴぃ、まつりさん出かけてるんじゃないの?」
「えー、休日は基本寝てるはずなんだけど……」