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【小説】神社の娘(第21話 橘平、遊びの約束をする)
「手のひらは上に向けて」
「は、はい」
「腰落として腰落として。『七減三加』って言ってね。体重を後ろ足に…」
橘平は今、夜の学校、それも柔道場に立っている。
隣にはど派手ファッション…ではなく、パリッとした道着を身に着けた向日葵。メイクだけは相変わらずで、髪は後ろで一つ結びしている。
「きっつ…」
橘平は初めての躰道を体験していた。
◇◇◇◇◇
今日の朝食時。橘平は納豆を混ぜながら、同じく納豆を混ぜている母親に何げなく報告した。
「今夜さ、学校でやってる躰道とかいう武道の体験行ってくる」
「どうしたのいきなり?」
「向日葵さんが子供たちに教えてるらしくて。来てみるかって」
「ああ、公英さんたちがやってる教室だね」
公英は野生動物対策課の二宮課長のこと。向日葵の親戚で上司である。
橘平が聞いた向日葵の話によると、躰道教室は二宮の親戚を中心に運営されている。門下の子供たちも一宮、二宮、三宮の親戚の子が多く通っているらしい。
なお、地域に開かれた教室なので、他の家の子や大人も一緒に汗を流しているということだ。
「父さん知ってるの?」
「きっぺー、ちっちゃいころ、一度だけお父さんと見学に行ってるのよ。でも大人たちの気合?試合?が迫力あって怖かったみたいで。それきり」
全く記憶にないことで、橘平は目をぱちぱちさせた。
母親が「子供に何か習い事をさせたい」ということで、いろいろ連れ回された思い出はぼんやりとあるが、躰道に行った記憶はなかった。隣町も含め連れ回された結果、親戚が開いている絵画教室が唯一、長く続いた。中3まで通った。
実花は親戚の教室に通わせることに、実は少し気持ち悪さがあった。義実家は隣、親戚もすべて近所に固まっている。一族に関わる必要のない部門は、積極的に別に頼りたかったのだ。息子が楽しく通っていたので習い事の件は飲み込んだ。橘平はふと、小さな村に絵画教室があるのは珍しいかもしれないと思った。
話は戻り、橘平は小さいころに躰道教室に見学へ行っていたという。そのころすでに、向日葵とは会っていた可能性がある。そう考えていたら、
「そうそう、その時橘平の面倒見てくれたの、向日葵ちゃんだったよ、確か。今とちょっとイメージ違うけど。何歳だったかなあ、中学生、小学校高学年…そのくらいだった。あの子別格にうまいらしくて、そのころから下の子の稽古見てたの」
その可能性しかなかったのだった。向日葵は覚えているかもしれないが、そのころは金髪ではなかっただろうから、橘平の記憶に残りにくかったのかもしれない。
弟の柑司は我関せずと、黙々と食べ続け、最初に食べ終わって席を立った。
「葵さんもいた?」
「いや、彼は剣道でしょ?居なかったんじゃないかな。覚えてないや」
やっぱり剣道か。サムライだもんな、と橘平は味噌汁をすする。
実花は「見たい…」と呟やいていた。俺は日本刀を振ってるの見たぜ、と心の中で自慢する息子だった。
「あでも、あの猫みたいなちっちゃい女の子、桜ちゃん?見たことあると思ってたけど、武道教室にいたよ。あの子だあの子!あの印象的な目!忘れられないよね」
桜は意外な面ばかりを持っている。驚かされてばかりの橘平だった。
◇◇◇◇◇
そんなわけで、橘平は今、向日葵から構え方や足運びを習っている。優しく一から丁寧に教えてくれるが、見慣れない動きで難しかった。
橘平は陸上部だ。運動は好きな方だし、走るのはそれなりに早いが、体の使い方が異なっていた。腰を落とすという、現代の日常生活にほとんどない態勢がまず、とてもきつい。
基本の構え方すら維持できず、きっと見られた姿ではないだろうと、橘平は恥ずかしくなった。通い続けている小学生たちのほうが立派なくらいだ。低い姿勢が保てず、徐々に浮き上がってきてしまう。ちびに「こしおとすんだよ」と声を掛けられてしまった。
小中高校と隣同士なため、小学生たちの顔をほぼ知っている、中高生たちはもっと知っている。この情けない姿を彼らに見られている。でも初心者なのだから、と割り切れたり、きれなかったりしていた。
黒帯たちの試合も見た。迫力があって、怪我をしそうで、橘平は終始はらはらした。当たり前のようにバク転したり、くねっと体を倒して攻撃を躱したり。スピードも目が追い付かないほどだ。
知り合いの小学5年生女子に「これ、危なくないの?」と橘平は尋ねた。
「そりゃ油断するとケガするけど。橘平くん部活は?」
「陸上部」
「陸上だって油断すると、転んだり骨折したりするんじゃないの?同じじゃない?」
「ご、ごもっとも…」
みな上手に、そして強く見えるけれど、向日葵が別格であることは橘平の素人目でもよくわかった。男性陣が誰も歯が立たないのである。身のこなしが軽く、まろやかでしなやか曲線的な動きが、対戦者たちを翻弄させる。
加えて男性以上の力持ち。他の人たちが手を抜いているとも思えず、素手では葵も勝てないのかもしれない。今日の稽古を通して、向日葵の言葉に真実味が増した橘平だった。
約二時間の稽古が終わった。きっと明日の朝、橘平の太ももは悲鳴をあげていることだろう。
向日葵に挨拶をしようと橘平が近づいていくと、ジャージに着替えた彼女の方からも走ってきてくれた。
「来てくれてありがと~!どうだった?」
「難しかったっす。武道ってかっこいいなあ、とは思ってたけど、走るより大変」
「いやいや、走るのも大変よ~陸上部だから体力あるね。まあ興味あったらまた来なよ」
「ありがとうございます。あの、父さんから聞いたんですけど」
「小さいころ来てたんでしょ?職場で聞いたよ~うんめーの出会い果たしてたのねえ。ごめんね、あんま覚えてないわ!」
「俺も全然覚えてないんで。小さかったし」
父と自分の知人が知り合いというのは、相変わらずむず痒い。向日葵と父が職場で会話するシーンが、いまいち思い描けない橘平だった。
「そういえば、二人の解読は進んだんすかね」
「進んだんじゃない?日曜に教えてくれるよ」
じゃあ日曜ねん、と向日葵はひらひら手を振り、ピンク軽のほうへ向かっていた。
◇◇◇◇◇
橘平は暗い夜道を、自転車を漕ぎながらつぶやく。
「走れるだけじゃあダメだよな。でも『なゐ』に明日出会うかもしれない、間に合わない、習っても仕方ない気もするけど、何もしないよりましだし…」と本格的に習うかどうか迷っていた。
帰宅してスマホを確認すると、桜からメッセージが来ていた。
〈お疲れ様、どうだった?〉
〈すっごい疲れたけど楽しかったよ。向日葵さんかっこよかった。そっちは?〉
〈あともう少し。土曜日に一気読みして、日曜日に分かったこと教えるね〉
〈明日は読まないの?〉
〈明日は葵兄さんの剣術の日だから〉
橘平の手が止まる。それはちょっと興味がある。
〈葵さんも先生?〉
〈たまに教えることもあるみたいだけど、教えるのめちゃくちゃ下手なんだって。親戚の人から聞いたんだけど。教えないほうがいいくらい〉
下手そうなのはなんとなく想像がついて、橘平はおかしくなってきた。
強いイコール教えるのもうまい、とは限らないのだ。その点、向日葵は相手のレベルや状況をよく汲んで、的確な指導を行っていた。
〈今、電話してもいい?ってか今どこ?家?〉
〈うん、家だよ。電話していいよ〉
そのメッセージを見てすぐ電話を掛けた。1コール目で桜は電話に出た。
『はい桜です』
「夜にごめん。いやさ、今日の向日葵さんがめっちゃかっこよくてさ。葵さんもきっとかっこいいのかな~ってちょっと興味があって。その、もし明日、桜さんが時間あったらいいんだけど、剣道?剣術?覗きに行きたいなって」
ここまで橘平は一気にまくし立ててから、心臓がどぎまぎしていることに気が付いた。
青年の剣に興味があるという目的を伝えているだけ。見学に行きたいだけ。
いままで、幼少からの顔見知りの人間しか遊びに誘ったことがなかった橘平は、友達になったばかりの人を初めて何かに誘うことが、意外に勇気のいることだと知った。
「そ、その、時間あったらね、で、その見学っていうんじゃなくて、ちらっと見たいだけで…」
桜からはまだ無言の電話しか聞こえない。「あれ、きもかったかな…」と怖くなってきた。
『うん!』
予想外に元気な返事が返って来た。
『覗きに行くんだよね?せっかくなら葵兄さんに絶対バレないようにしよう!ふふふ、スパイごっこみたい!黒い服できてね!』
予想外に楽しそうだった。
◇◇◇◇◇
話は昼に戻る。
向日葵が総務部での用事を済ませ、自身の課へ戻る道中のこと。廊下で橘平の父・幸次に出会った。
「向日葵ちゃん、こんにちは」
「やっがみかちょ~!こんにちは~!」
「そういや今日、息子がお世話になるみたいで」
「お世話だなんてえ!私が誘ったんですから!」
思い切り手を横に振り、向日葵は笑顔を浮かべる。
「それで思い出したんだけどさ、実は橘平ってちっちゃいころ、武道教室に見学いっててさ」
「ふえ?」
「そんときに橘平の面倒見てくれたの、向日葵ちゃんだったんだよね」
「ぬええ!?全く覚えてないです!」
向日葵は間抜けな声で驚いた。言葉通り、全く記憶にない。
「あの子なんてもっと覚えてないよ。いやあ、それにしてもさあ」
黒縁眼鏡の奥にある幸次の目じりが下がる。
「君は昔から変わらない」
「めっちゃ変わりましたよう!テンションとか、メイクとか髪色とか、なんかいろいろ!」
「見た目じゃないよ。心だよ。あの頃と変わらず、向日葵ちゃんは優しくて素敵な子だね」
優しくて素敵。向日葵はその言葉に胸が「きゅん」となるのを感じた。
「息子と仲良くしてくれてありがとう。じゃあよろしくね」
そういって幸次はすたすたと歩いていった。
入職当時より、向日葵の中で幸次は「役場一、優しい紳士」である。
彼女の金髪やメイクについて何一つ言わない、外見に惑わされることなく、内面に真摯に向き合ってくれる人物だ。橘平の素直で優しく、気配り上手なところは父親似なのかもしれない。向日葵はそう感じた。
「やーん、私もしや、八神親子がタイプってこと~?」
軽くスキップしながら自席に戻った向日葵は、仕事を他所にして、とろけた顔でふふふ、っとにこにこしていた。
その様子に桔梗が「良いことあったの?」と声をかける。
「うふふふ~私ってえ『優しくて素敵な子』、なんですって~!」
桔梗が眉をひそめる。
「もしかして誰かに口説かれたの?どこ課のクソよ。それとも窓口に来た村人?」
葵の耳がぴくりと反応する。
先ほどからの彼女の嬉しそうな様子。とても気になっていたが、葵は向日葵と、職場では仕事以外の話は極力しないようにしていた。向日葵も同様である。
「違いますよお~!福祉の八神課長がぁ、向日葵ちゃんは子供のころから優しくて素敵って」
「八神幸次が?!無害な顔してクソだったのね、私の向日葵を」
「だから本当にそーいうんじゃないんです!あー課長素敵。いつも思うけど、外見じゃなくて中身を見てる人なんだもん。きゅんっとした!私もそーいう人と一緒になりたーい!」
桔梗は立ち上がり、すたすたと向日葵の席までやってきた。
そして向日葵の机をバン、と叩いた。
「向日葵、この世の男の9割はクソよ。口が上手いヤツはもれなくクソよ。あなた、騙されやすいかもしれないからクソには気をつけなさい」
「9割って」
「この課をみなさい。今、男がいないから言うけど、樹ちゃん以外クソだわ。はい9割」
桔梗は樹のことを、なぜか相当気に入っている。しかし他の男性職員、特に課長のことは大嫌いを通り越して、表現の仕様がない。
しかし今、課に「男がいない」と言ったが葵はいる。
「にしても、八神幸次ごときに陥落するなんてぬるすぎるわ。訓練しなきゃ。葵!」
突然振られた葵は、おもわず肩がびくっと動く。一応、居たことは認識されていたらしい。
桔梗は葵の隣席の椅子に座る。樹の席だ。
「あんた『向日葵ちゃんは優しくて可愛いね』って言ってみなさい」
「や、優しくて素敵、では」
「なんでもいいわよ、ほら言って」
桔梗は手の甲で葵の頬を軽く叩いた。
「別に向日葵のこと何とも思ってないから言えるでしょ。訓練させなきゃ。クソに捕まったら可哀そうだわ」
何とも思っていない。
二人は周囲にそのように「見せてきた」。桜の守役も含め、子供のころからただの「同僚」。特に向日葵は慎重に、必要以上に「距離」を取ってきたのだ。
先日、葵の方からその距離を詰めるという事件が起こったけれど、職場での振る舞いは別問題。外では向日葵と距離を取らねばならないことは、重々承知だ。
ここで変に戸惑うのは逆効果だと判断した葵は、向日葵に言う。
「向日葵ちゃんは優しくて可愛いね」
葵は時間が止まったような気がした。 それも一瞬のことで、
「このポンコツ!」
と桔梗から後頭部をはたかれた。葵と同じ能力を持ち、日本刀を振り回して妖物を駆除する彼女。もちろん同年代の女性よりも攻撃力は抜群に高い。
しかも部下で親戚、体力もある葵相手なので容赦ない。叩かれた場所はきっと、真っ赤、腫れている。
「棒読み!これじゃあ訓練にならないわよ、感情込めて!」
「できませんよ、役者じゃないんだから。な、んとも思ってないのに、感情込めるとか」
葵は叩かれた場所を右手で覆いながら反論した。
「少女漫画にでてくるような顔してるくせに。お勉強しかできないタイプね。こいつもクソだ。ねえ向日葵ちゃん?」
「あ…あ、ああ!ほんと、こいつポンコツ!これは流石に私でも騙されないよ。見た目だけだね~」
桔梗に合わせて葵をバカにする向日葵だが、実は心拍数も血圧も呼吸もすべて限界を超え、倒れてしまいそうだった。
葵も棒読みとはいえ、流石に恥ずかしい。しかし「何ともない」といった風に冷静さを装っていた。パワハラで訴えてやりたい。次に何か強要されたら人事に訴えてやろうと思うくらいだった。
桔梗は「心を込めて言いなさいよ、歴代彼女とのことを思い出して」また葵に言わせようとしたが、課長が戻って来た。
しかも、「ねえねえ、妖物出たよ!」感知しながら。
「桔梗ちゃん、ひまちゃんと」
「申し訳ありません、別件が立て込んでます」
実際には立て込んでなどいない。葵をおもちゃにするという楽しいイベントを課長に中断されて、腹が立って反抗しただけである。
樹の席で足を組んで座っている姿からして、バレバレの嘘だ。
「そうかい」
こうなったら桔梗は梃でも動かない。
課長は仕事に関することだけは優秀なので、無理に彼女を出動させない。下手に刺激して仕事をしなくなると困るからだ。気が済めば、また元通りの彼女になることをよく承知している。
「じゃあ葵君とひまちゃん行って」
2人で出動することになった。
◇◇◇◇◇
役場の白い乗用車で二人きりの中、葵は運転しながら「向日葵ちゃんは優しくて素敵だね」と言ってみた。
ラジオだけが、車内でお喋りだった。
幸次からそう言われ嬉しかったのだから、自分が言っても大丈夫だ。そう踏んだ葵だったが、向日葵からは何の反応もない。また、彼女の逆鱗に触れしまったのだろうか。びくびくしながら、葵は現場へと車を走らせる。
向日葵は現場で車を降りてすぐ、「このポンコツ!」と言いながら葵の背中をリュックで攻撃した。
「痛っ!誰も見てないときに言ったのに!なんで八神課長はよくて俺は怒るんだよ」
この流れはまた無視が始まるか、と思われたが、
「そういうことじゃない…仕事中はやめて、ほんと…なんでタイミングわかんないかな。ほんと昔から、昔っからいろいろポンコツ…」
そこで向日葵は鎮火し、今回の騒動は終了した。
ほっとしたポンコツだったが、「そういうことじゃない」はこれからも理解できなさそうだ。
この世の男の9割はクソ。
桔梗の言わんとすることも、分からなくはない向日葵であった。
「1割だといいなあ」
「なんか言った?」
「うっさい9割」
向日葵はリュックを背負いながら、葵に質問した。
「私の好みのタイプ、知ってる?」
葵は彼女が好んできたドラマや漫画などを思い出し、俳優やキャラクターの共通点を探そうとしたが、なかなか好みのタイプに辿り着かない。
うぬぼれて「俺」などと言ってみることも考えた。しかし、腹に拳を入れらるだろうことは一応、彼にも予想できた。
「…さあ…」
そういうわけで、分からないという態度を示した。彼女の答えは予想外だった。
「八神幸次と橘平だよ!!見習え!!」
そう言って、向日葵はさくさく山に入っていった。