絆
コロナ騒動のなか
辻仁成さんのコメントが響いた
コロナは人と人との絆を
絶とうとしている
負けないで
私には文才がないからだけれど
言いたかったのは正にこの事だった
コロナ騒動が始まった時期が卒業式シーズンだった
卒業式に参加出来ない保護者の哀しみ
批判を覚悟で書いてみる
私には子供がいないので親の気持ちは分からないので理想論になることは承知している
卒業式に参列出来ない保護者
子供ひとりにたいして
一人の保護者のみの参加
20年近く前の話
「息子の卒園式に行くんですよ」
カットに来てくれた後輩の話
「え?奥さん行かれないの?」
「いや、今は両親で行くのが常みたいで」
「なぬ?」
いやー
時代は変わった
私が子供の頃は父親が学校の行事に参加するって余程のことがない限り皆無だった
時代は変わったんだなーと知った
昔話をするようになると歳を感じるのだが(笑)
当たり前の常識が変わりつつある事を実感していた
このコロナ騒動で
常識が
見直されるときが
訪れていると
思った
極端な話になる
戦争を知らない私が語れることではないのだけれど
戦時・戦後を考えてみた
死に目に会えない
己の主張は悪
自分の命は
国のもの
母方の祖父が戦死し
本人の骨かも分からない遺骨が
一欠片
祖母と共にお墓で眠っている
贅沢な悩みが増えたものだ
物が溢れ
感情が溢れ
不自由がないことの
不自由さを
分からないひとが
溢れている
SNSを見ていても
当たり前と思っていたことが
当たり前でなくなっている現状への
不満が蔓延している
当たり前
常識
これは誰に因って作られ
誰に因って定着したのでしょうか
私がこの事に気付いたのは
色んな本やブログを
読んだ結果だった
勿論
正しいかは分からない
~~でなければいけない
~~しなければいけない
~~することが当たり前
間違ってはいないけれど
これが息苦しく
感じた
今までにも書いてきているけれど
信州にいる頃から
枠に填まることに
嫌悪感があった
ただ
これの意味が分かっていなかった
ここ数年の経験から
私なりの答えが
見付かった
やりたいから
やる
一般常識に囚われず
自分がやりたいと思ったことを
自分のやり方でやる
この事に気付いてから
とても楽しくなった
すべては
自分で選んでいるのだと
誰々さんに言われたから
皆が言ってる
皆がやってる
それをやっても良いのよ
周りに感化され
足並みをそろえて
生きていきたいのなら
それでいい
だったら
文句言わずに
生きていったらよいだけの事
誰かに強いられましたか?
それをしない事は悪ですか?
絆
選択
決断
責任
環境のせいにしてもいい
誰かのせいにしてもいい
一生そうやって生きていくことを
自分が納得するのなら
人と人が
繋がること
それさえも
何かに
責任転嫁しているあなた
すべての答えは
自分の中にある
それがわかれば
この難局も
乗り越えられる
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