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お遍路書籍のご紹介〜娘巡礼記

2023年4月から毎週水曜日にstandfmで配信し、
その後、このnoteにも載せてきましたお四国遍路記録
2023年10月に結願までと、その後の高野山までをご紹介して、
おわったのですが、その後、またちょっとそれに関するお話をしました。

それは四国遍路に関する本のご紹介。
が、しかし、その分を、またもやこちらにあげるのを失念しておりまして
今頃の投稿になりますが、よかったらおつきあいください。

ご紹介したのは、サムネイルにのせました、
高群逸枝さん著、娘巡礼記です。
わたしが持っているのは岩波文庫(それも中古で入手)ですが
これより先、元々は朝日新聞出版から出版されています。
その紹介文にはこんなことが書かれています。

日本女性史の開拓者・高群逸枝は大正7年24歳のとき、半年にわたる四国遍路の旅に出た。その旅の先々から「九州日日新聞」に送ったドキュメント風の旅行記。当時の風俗や風物はもちろん、高群自身の内面の世界観を写し出して貴重。

娘巡礼記~朝日新聞出版より

そしてこの岩波文庫の表紙にある紹介には

大正7年、24歳の高群逸枝(1894―1964)は四国へ旅立った。
家を捨て、職を捨て、恋を捨て、ただ再生を目指して。
女性の旅行が好奇の目で見られていた時代、
旅先から書き送られたその手記は新聞に連載され、大評判を呼ぶ。
巡礼中の苦しみと悟り、社会のどん底に生きる遍路の姿、
各地の風物をいきいきと伝える紀行文学の傑作。

岩波文庫表紙より

と書かれています。

正直「どんぞこ」というほどではない気もしましたが…

確かに時代的に「うら若き女性が遍路旅だなんて…」
という背景もあるのですが、それよりも、まず驚いたのは、
1894年に熊本県下益城郡豊川村(現在は宇城市)に誕生した逸枝さん、
出発時のは熊本市内に暮らしてたようですが、
そこからずっと歩いていくのです。
当たり前と言えば当たり前だったのかもしれませんが、
JRに乗って新幹線で岡山まで行ってなんてことではないのです。
せめて九州の間は電車なかったのかな?と思ったりもしましたが、
どもあれ、四国の遍路道を歩く以前に、
四国に入るまでもが、相当な苦労であったのは伝わります。

そして推測ですが、この四国に入るまでが一番つらかったのではないかと
思うのです。

ページをめくる、はじまりは熊本の大津あたりから綴られています。
勿論ずっと歩いて行きますが、更に旅館に泊まるわけでもなく
人の家を訪ねて「泊めてもらえませんか?」と言いながら進むのです。

そして面白いと言ってはいけないでしょうが、
実はこの初めの方は、彼女はやたらと文句をたくさん書き連ねています。
けれど所々で、何とかいい所を書こうとしていたのかもしれません。
「みんなとても親切にしてくれる」と書いたりもしますが
直後にはちょっと愚痴っぽいことをあれこれと綴っているように
私には映りました。

けれど「そこが若さなんだ」とも思うのです。そして「若いが故に」と思わせることがたくさん書いてあるように思います。誰しも若い頃には、自意識が過剰傾向になりやすいお年頃もあるかと思うのですが、この辺がまた、
妙に正直に書かれている気がして、そしてそれが面白くもあります。

ただ、ご本人はいたって真剣でしょうから、ちょっと申し訳ないですが。
とはいえ、もし私が彼女と同年代で出会っていたなら、決して仲良くはなろうとはしなかったと思います。この出発して間もない頃の彼女とは。

音声での配信はこちらからどうぞ

逸枝さんが旅に出るきっかけ

さて彼女は、なぜ四国遍路の旅にでたのか。
それは、彼女生まれた時に、お母さまが観音様に
「この子を丈夫に成長させてくださったら、
きっとひとりで巡礼いたさせますから」と誓ったから、なのだそうです。

逸枝さんが生まれる前に、こどもたちを失っていたお母様だったそうで、
逸枝さんはこのエピソードを、旅の間、「なぜ巡礼をしているのか?」と
聞かれる度にm何度も話します。

ちなみに、現代のお遍路では、どうして?と理由を聞くことは、
基本的に遠慮するのが常
となっているようです。いろんな事情があるでしょうし、それはそれとしてそっとしておくことが慈愛なのかもしれません。

でもこの逸枝さんの時代や更にもっと昔には、
遍路をする人は人生の失敗者、落伍者、病人、などと決めつけられて
好奇な目にさらされることが多かったそうです。

逸枝さんも「家出してきたんじゃないか?」と聞かれたりもしますし
たびたび不審がられるのです。

今でもお若い女性が独りで回っていると、多少は「珍しいね」とみられるでしょうし、おばさん年代のわたしでも、独りで歩いていると、気をかけてもらって、だからこそ、とてもよくしていただきました。
見られているというより、見守ってもらっているありがたさでしたが、それも、もうそんなに若くもない自意識のおかげだったのかもしれません。

けれど、逸枝さんはまだまだ、そうはいかないようでした。
毎回誰かに聞かれるたびに、とてもうんざりしていたようです。

ただ、文中にこの母のエピソードを話す時に
「どうやらそれは本当です」と書かれている所があり
実は、それとは別に逸枝さんにも旅に出たい理由があった、
と思わせる節もあるのです。

そんな心のうちに隠されたものがあるからこそなのでしょうか、
何かにつけてネガティブに物事をとらえがちな印象が否めませんでした。

遍路道中の出会いによって

しかし、そんな逸枝さんでしたが、
だんだんと「不思議な縁だ、そんなことってあるだろうか」
というような感じ方が増えていきます。

そして定期的に新聞社に原稿を送り、
それが新聞にのっているのを見たり、
周囲がそれを知るようになると、急に元気になったりもします。

でも「恥ずかしくて身の置き場がない」とか記していたり
注目されたらされたで「動物園の動物じゃない」といってみたり、
まだまだ、ちょっと面倒な娘だと思いながら読み進めていきました。
(あくまでも私個人の感想です)

とはいいつつも、日数を考えると、これも仕方ないのかなと
急に味方になりたくなる時もあります。

この本の記録は、チャプターでは105に分かれていますが、
28あたりまで進んでいるのに、まだ大分県にいます。

そこから船にのってやっと四国に入るのですが、
全体295ページで綴られている内、
九州を出るまでに100ページ費やされています。

日付をひろってみますと、
5月14日 決意の手紙を書いて、
大正7年6月4日、阿蘇山の山を目にしながらあるきはじめる。
7月14日やっと午前3時の船で
大分から午前11時頃に八幡浜に上陸。

2か月も九州を歩いているのです。
ここまできて、「そりゃあ絶対、四国に渡ってからより、
こっちが辛かったのだろう」と思いもします。
この間、普通に九州の田舎を歩いて行くわけですから、四国に入ってからの、その土地でたくさんのお遍路さんを長く見守ってくれている人たちとは、受け入れ方も違ったのではないかと思ったわけです。そしてここから、わたしは少し逸枝さんに好意的になった気がします。

逸枝さんの遍路のまわり方

さて、何とか四国についた逸枝さんですが、読者はここで、
この巡礼は、1番札所からではないことを知ります。
大分から愛媛の港に着いているので、そこから一番近い43番札所明石寺さんから巡りはじめます。確かに、ロスは少ないといえ、ちょっと意外でした。

けれどここでトラブル発生。
7月15日にスタートして、やっと四国の遍路道を歩き始めたのに、
なんと道を間違えて反対に出て、やっとの思いで山越えして、
卯之町につき明石寺さんに参拝
となったそうです。

わたしは区切り打ちだったからでしたが、同じ九州からなので、43番札所に行った時はフェリーで四国入りしています。その時のお話は、こちらに記しています。

変わっていく逸枝さん

さてそんな道中の逸枝さん、この四国入りあたりから、
更に文書や書いている内容が変わってきている気がしました。

これが、お遍路を通じて、いろんな人に会いながら
いろんな思いをしながら余計なものを落していく過程ではないか
と思うのです。わたしもこれは体感しました。

面倒くさい娘だと思っていた逸枝ちゃんの言葉は、
だんだんすっと読めるようになり、寄り添いたい気持ちにもなり、
「こういうことが起きるのがお遍路だし、
これはリアルな内面の成長記録だよね、わかるよ」と思う所でも
ありました。

これはわたしですが…

結願の頃に彼女の気持ちは

少しずつ変化が感じられた逸枝ちゃん。
この辺からは、もう同じ道をたどった仲間として、
逸枝さんではなく、逸枝ちゃんと言いたい気持ちにもなった私です。

あんなに「ああだこうだ」と言っていたのに、
43番から始まった逸枝ちゃんのお遍路旅は、四国を一周して、
44番札所大宝寺さんで本願成就
となります。

わたしの44番札所のお話はこちら

そしてついに最終日を迎えた時、彼女はこんなことを書いています。

いよいよきた。いよいよ四国と別れねばならぬ
夢のような流浪の旅と別れねばならぬ
来るべき運命は何ぞ
来るべき世界は何ぞ

娘巡礼記

一番最後に、これが言えるようになっている、
「そう、ほんとそうだよね!そしてこれからを、
24歳でこんな風に言えるなんて、逸枝ちゃんよかったね」と
わたしはそんな気持ちになっていました。

ただ、晩年に、彼女はもう一度お遍路についてを思い出して書いている
その名も「お遍路」という書籍があるのですが
こちらでは、もう冒頭から、この最後の境地で書いています。

体感した自分が振り返って書いているから確かにそうなるでしょう。
ですから、旅のはじまりから、既に、とてもステキな思い出でもあるかのようにつづられているのですが、娘巡礼記が本音だとすれば、かなり美化されている気がする…なんてことも思いました。

こちらは電子書籍もあって今も出版されています。

電子書籍もあります

こちらの「お遍路」の初版は昭和13年(1938年)ですが、
逸枝さんは、こんな言葉を綴っています。

どんな不信な者でも、足ひとたび四国に入れば、
遍路愛の雰囲気だけは感ぜずにはいられまい。
ここでは乞食同様のみすぼらしい人であろうが、
病気で不当な虐げを受けている人であろうが、
勝ち誇った富家のお嬢さんであろうが、
互いになんの隔てもなく、
出会う時には必ず半合掌の礼をする。
これは淡々たる一視平等の現われで、
世間的な義理や人情の所産ではない。

娘巡礼記はひとつずつのお寺の名前も記されていますし、
彼女の場合は、途中までは逆打ちになるので歩いた道が逆向きで
経路の参考にはなりにくいかもしれません。けれど、お寺の様子はよくわかりますし、参道の感じもよく伝わるので、私自身も懐かしく、
大正時代と今も、そんなに変わっていない所も多いことがまた楽しく、
非情に興味深く面白い一冊でした。

ただ残念なのは、すでに絶版となっていることです。
図書館は所蔵している所があると思いますので興味がわいた方は検索してみてください。また古本屋さんにもまだあると思います。

ということで今日は
高群逸枝著 娘巡礼記のご紹介でした。

ちなみにわたしの結願88番札所の時のことはこちらです。
よかったらのぞいてみてください。

最後までおつきあいただきありがとうございました。

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