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「聞く」こと

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知っているひととの電話と、知らない人との電話って、違う。
表情見ながら話すというのは、やっぱり意味があることなんだ。
知らない人との電話が苦手と思うのは、顔が見えないから。

先月、大学の中で「難聴疑似体験」の講習があったのだけれど、
そのときに感じたこととなんとなくリンクする。
「難聴疑似体験」は聴覚障がいのある学生からのリクエストで
実現した全教職員向けの講習だった。
過去にも学生が所属している学科の中でやったことがあったという。

耳栓をして、ノイズの流れるヘッドホンをつけて、「聞こえない」を
順繰りに体験する。

自分の声が聞こえているか・届いているかわからないので、自然と
声が大きくなっていたり、区切って言ったり。
「聞こえない」体験中の相手に話すときも、ゆっくりはっきり。
日本語のおぼつかない外国人に話すときみたい。

でも、それが想像以上にわかりにくいもの――と実体験する。

自分の順番がきたときに、「聞こえない世界」のもどかしさよりも、
「こういうふうにゆっくり言えばわかるだろう」と、自分ではよしと思って
やっていることでも、助けにならない場合もある、ということの驚きのほうが大きかった。
「伝えかた」が独善的なこともある――というか。

表情や目線の動き、手振り身振りなど、読み取れた情報をつなぎあわせて
一つの連想を生みだし、相手の話を予測する。
もちろん筆談は大きな助けになる。

また、ふだんの自分自身も、表情やジェスチャーなど非言語のもの、
いわば会話の“周辺情報”にかなり頼っているのだと気づかされる。
電話で、声だけで話を組み立てていくのが苦手だと感じるのは、
そういう「頼り」が少ないからなのかもしれない。

そういえば以前、フランチャイズ店舗のエリアマネージャーをやっている
知り合いが、 自分の管轄のお店に電話をかけるときは、店長の写真を
前に置いてから、 と話していた。
「表情は見えなくても、今自分はこの人と話をしているんだ、っていう
感じがして安心するから」

なるほどな、と思う。

ヒントや手がかりにするものは人それぞれだ。
目の見えないひとは、「音」や手触り、匂いが頼り。

つきつめれば、「聞く」というのは、だれにとってもエネルギーが
必要なことだ。
「聞きとる」ために五感のうち持っているもの、あるものをすべて使う
というのは、だれであれ同じなんだ、といまさらながらに思う。
相手からの情報を受け止めるために、持っている力をすべて使う。

「聞く」ことは、受けとめるということ。

見えていても、見えていないこと、見ないことがあるし、
聞こえていても、聞こえていないこと、聞かないことがある。
見えていなくても見える、聞こえていなくても聞こえる――
と言われる通りなのだ。

「受け止める」ために、身体全体で「聞いて」いるのかどうか。
そして、「受け止めてもらう」ために、独りよがりにならない「伝えかた」をしているかどうか…………。

いまさらながらに、「聞く」ことを通して考えさせられることがいろいろある。

(2016年10月14日・Facebookノート投稿)
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読み返して、独りよがりの配慮、ということを再度心にとめる。
「聞く力」は「伝える力」とつながっているのに、どうしても独善的になりがちな自分。
「聞く力」ってどこかで聞いたようなことばだけれど――なかなかきちんと受け止めきれず、単に伝えたいことを伝えたがる傾向にいきがち。

などと、またもや反省。
反省といいつつ生かされていないのだから、ただ振り返って反省風に言っているだけ、ともいう。

とりあえずこうして記録にとどめ、思い返す機会をつくっておいている。

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