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取り返しのつかないこと

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EU離脱投票を悔やむ声が多いとかナントカカントカ。
どこまでほんとうなのかどうかはわからないが(最近は
偏りのある報道に辟易しているので)、もしもそうならば、
“他山の石”とするべきなのかも。

どんな結果が出るにせよ、
世の中にある取り返しのつかないことのひとつだよね、
選挙って。

だから――わかんないから行かないとか、
どうせ行っても同じだから行かないとか、
そんなの当たり前に「ナシ」だ。
守るチャンスも変えるチャンスも放棄するわけだから。

行っておけばよかった、って絶対あとで思わないから
なんて言いたい人でも、
責任を果たさなかった、という責任は、
どこかで必ず自分に戻ってくるんじゃなかろうか。

ふいに「取り返しのつかないこと」――で、
“灰皿”の出てくる詩があったなぁ、と記憶が刺激される。

なんだっけ?と検索したら、これだった。
佐藤雅彦が毎日新聞に連載していた『毎月新聞』で
触れていたという詩。
リアルタイムで読んだのかも。

 「三週間後」
 旅行からかえって、
 玄関の鍵をあけると、
 部屋のテーブルの上に
 吸殻がいっぱいの
 灰皿がのってた、――
 こんなことは取り返しがつかない。
     ――ギュンター・グラス

そうそう、これだった。

そのまま放置してきたものが、思いもかけず眼前に迫ってくる。
自分では忘れていたけれども、たしかにそこにあったということを
つきつけられたときの当惑というのか?
この不可思議な感覚を、いつかどこかで、なにかで、
味わうかもしれないんだ、と。

……なんてことを、まじめに思う雨の朝。

(2016.6.28.Facebookノート投稿)
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8年前かぁ……。

イギリスEU離脱決定の後悔、なんてことがトピックになっていた時期だったんだな。
それを契機に純粋に”政治参加”について考えていたようにも思えるが、どうなんだろう。
あるいは、ここには書いていないけれども、茫然自失にならざるを得ないような「取り返しのつかないこと」に遭遇したことなんかがあったんだろうか?と記憶をたどってみる。

いや、そういうことではないな。

たぶん――たぶんだけど、ただただ「取り返しのつかないこと」について、漠然と思いめぐらしてみただけだ。

イギリスが「自分たちのひとつの行動の結果で決まったこと」について、不安みたいなものを抱えて一歩を踏み出そうとしていたとき。
たしかに後悔しているひとたちは多いのかもしれない。
でも、そもそもそう考えるひとたちが多くて、その賛成票が多かったから、そう決まったんだよね。この時点では「取り返しがつかない」感があるんだろうけどね。
でも、もしほんとうに後悔が強く、やり直すなら、逆のエネルギーが発揮されて「取り返しのつく」ことに向かうことがあるのかもしれない??
………………なんて程度のことを考えていたのだろうと思う。

そこへ佐藤雅彦氏が『毎月新聞』の中で引用したギュンター・グラスの詩など思い出し、あわせてつづってはみたんだろう。
氏がこの詩に共感した「取り返しのつかないこと」の経験は、まったく別物だったのに。
当時のわたしは、単純に「取り返しがつかない」という言葉だけで連想してしまっただけと思われる。

こうして振り返ってみても、自分のつづった2つのトピックには溝がある――いや、どちらも深みのない取り上げ方をしているから、溝には至らず、単なる離れた地点同士か。
イギリスのEU離脱ニュースとギュンター・グラスの詩は、「取り返しのつかない」という言葉だけでつなげただけの、ふわふわとした軽い、思考とは言えないような思考だから。

このわけのわからない過去の投稿を見て、今思うのは――
「灰」という、もっとも取り返しのつかなさを象徴するものを眼前にして、たしかにこれほど「取り返しがつかないこと」があるだろうか、ということ。
当時はもっと漠然とした感覚だったように思うが、「取り返しのつかないこと」には、どこか得体のしれない雰囲気と力がある、ということ。

目の前にあらわれたものが、経てきた過去。
こちらはその経過を知らなかったとしても、ひとたび「過去のできごと」が想起されてしまったら、目の前にあるそれがいかに確実なものか、変わりえないものであるか、ということを突き付けられる。
この動かしがたい経過があって、唖然?呆然?とさせられる「現在」がある――。

それでも、時間は進む。
取り返しがつかないことを、いくつも繰り返しながら。


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