記憶の引き出し(2)
前回暗譜のことでだらだら思い出綴りをしていたら、楽譜への書き込みに触れてしまった。
先生が、「書き込みが変わる」と話していたことを思い出して、ついまた余計な話をだらだらつづりたくなったのであった。
なにごとにも勢いというのがあるので、あらためて書くとなると急にこっぱずかしくなったり、トーンダウンしたりすることもある。今回は果たしてどういうテンションになるか不明だけれども、ま、つれづれなるままに……。
書き込み。
自分は読んでいる自分の本に原則書き込みができない。むかし教科書にはアンダーラインを引いたり、書き込みもしていた。
そうするような指導があったからというのもあるし、教科書はそもそも脚注だのなんだの、いろいろあるので――自分の世界に入る手前のもの、という感覚だったから。
でも、ふつうの本にはどうも傍線、アンダーラインを引いたり、ラインマーカーをつけたりすることに抵抗がある。
だから、借りた本に書き込みがあったり、線が引いてあったりすると、びっくりしたものだった。
古本屋で手に入れたもので見るのは、それもまたそのひとの味わい、と思えるのだけれど、図書館や友人・知人から借りたものにあるときには、ちょっと驚いてしまう。
うちのひとから借りた――彼の卒論の参考文献だった――本を読み始めたら、まさにそれでびっくりした。傍線、マーカー、たまに謎の単語。
でも、自分にとって専門外の本だったので、それはひとつ道しるべになり助かったところもある。
教科書みたいなものだ。
小説でなければ、人に貸すことも基本ないような「自分の本」として圧可能であれば、そういうガイドをつけておくのも、とくに悪いことでもない気がしてきた。自分のための、自分の本だから。
それでも小説ではない本で好きなものには、書き込まない。ただ付箋だらけにするので、それはそれで邪魔ではないかと言われるのだけれど。
閑話休題。
そんなわけで、チェンバロレッスンを始めてから、楽譜にどんどん書き込みなさい(しかも自分で)というのは、結構はじめは抵抗があったわけだけれど――その意味を受け止めて、ほそぼそと遠慮がちにスタートしてみた。
基本は、指定された楽譜は、そんなに高値でなければ購入したし、安易に手に入らないものなどはコピーをとらせていただけたので、どちらにしても「自分のもの」である。
そこに、どう弾きたいか、自分で考えて注釈をつけて、いわば”表現ガイドライン”を作り上げる……。
どんどん書き込む。
”楽譜がきれいである必要はない”。
それは習い始め、耳慣れないウィリアム・バードの曲がレッスン曲になったときのこと。自分が楽譜を見てこんな曲かなと思って練習しはじめたものの、ほんとうにこういう曲なのか不安になった。どう弾くべきなのか?とも思って、CDを探して聴いてみたのである。
なるほど、こういう曲なんだ、とイメージを持ったが、その話をしたら、そのとおりに弾こうとしてはだめよ、というようなことを言われた。
「それはその演奏者の弾き方であって、それが決まりではないし、それを真似して弾くことがいいことでもない」
もちろん同じ曲が演奏者によって違うのはよくわかるけれど……
単に真似しても仕方がないというのもわかるけれど……
「演奏」は単に弾ければいいだけのことではないのに、。
ぼやぼや考えていたら、曲に向き合う、そして書き込みをしていくことを教えていただいた。このチェンバロレッスンで使う楽譜は、自分の演奏を書き込める楽譜なんだと。
解釈して書き込みなんてだいそれたことはできないよ、、、なんて怯えた瞬間である。
そうそう、以前に流行った「のだめカンタービレ」(コミックは読んでおらずドラマ)で、のだめが”アナリーゼ”に悩む姿が描かれていたっけか。
でも、楽譜と向き合い、曲を”解析・解釈”していくことは、常識だったのかと思ったものだった。
好きで始めて、興味・関心だけで続けて、中学生時代の楽典知識のままチェンバロにも足を突っ込んで――なんとも不作法者だったということかもしれない。
楽譜の音並びだけ見て弾けそう、なんて思って、単純に左手右手で音を追って弾き始めるのは、乱暴なのだ。
お恥ずかしい。
あ。
そういえば、楽典といえば――先生のお宅でレッスンを受けることになってからは、理論というのか基礎的な楽典がレッスンに少し加えられることになった。
まずは「この曲が〇調か」ということを意識して、そこから考えていきましょう、と。新たな曲に向き合うときは必ず「これは何調?」ということを聞かれるようになった。ちょっとしたテストだ。
何の記号もついていなければ、ハ長調かイ短調かを判断すればいいのだが、フラットやシャープがあると――そして、増えれば増えるほど、その数に圧倒されて、弾きづらさもイメージされて臆する。
器械的に覚えてしまっておけばよかったのかもしれないけれど、そこに記憶能力を割くことを考えたことがなかった。そんな記号のたくさんついた曲を弾くことなんてない、とタカをくくっていたから。
実際、そんな記号のたくさんついた曲をわたしが弾くことなんて、そんんなに、まったくといっていいほどなかったし――たぶんこれからもチャレンジする機会がほぼない気がする(なにしろレッスン休止中だし)。
というわけで――「〇調」かの問いに対して、わたしが用いたのは中学時代までの楽典知識。”調”は記号の位置と最後の一音で判別するという、なんちゃって知識で判断した。
たとえばフラットがいくつかあったとしてその記号が乗っている位置の音がその調の”ファ”になる。なので、そこからファ・ミ・レ・ドと下がって”ド”の音を探すと、いわゆる”ファ(ヘ)”がドになるので、調としては「ヘ」の”調”。長調か短調かは曲の最後の音で判断。つまり、その調の”ド”で終われば長調、”ラ”で終われば短調……この法則に当てはまらない場合もあるけれど、おおまかにはこうして判断すると便利、と習った記憶で止まっている。
それも悪くはないけれど、ちゃんと音のことを知りましょう、少し楽典も入れていこうかな……と言われることになった次第。
うむむ。そういった学びからはだいぶ遠ざかっているのに、大丈夫か、わたし? そもそも大雑把なフィーリング人間なのに――。
本と五線ノートを用意するように言われて、レッスンのときにはそれも持っていくことになり、五線紙に宿題が出されることもあった。
ちなみに、本は県民になる引っ越しのときにどこにしまったかわからなくなってしまった。どこかにあるはずだが、まだ見つけられず悔しい。
ところで、記号がたくさんある調だから弾きにくいとも限らない、と言うかたもいる。
まあ、わからなくもない。
むしろ臨時記号がしょっちゅう出てくるほうが、たしかにしんどかったりするから。
半音上がったもののそのあといつ帰ってきたのか、それとも行ったきりでよかったのか、見失ってわからなくなってしまうこともあった。
知っている曲なら、「あれ、こんな音の流れだったっけか」と思えるのだが、知らない曲は変だということに気づかず、勝手に「こんな音なんだ~」とさらっとスルーしてしまったこともある。
「いつもここ!」と言われて、ぐりぐり書き込まれる。そういうところに限って、”要(かなめ)の音”だったりする。
さてさて、「調」を把握して弾くということの大切さを教えていただいているなかでも、なぜこんなに「調」の種類があるんだろうとかすかな疑問を覚える。どの調でも「ドレミファソラシド」で聞こえる音階に読み替える・読み替えられるのに、シャープやフラットをつけてまで、”ヘ”で始めたり”ト”で始めたりするんだろう、などと。
先生が(ほんとうは呆れていたのだろうけれど)、それぞれの「調」にはカラーがあるのだ、と教えてくれた。
「たとえば、長調と短調の曲では感じ方が変わるように、同じ曲をハ長調とト長調で弾くと、それも違って聞こえるはず」
そういやハ長調で弾ける名曲、とかいうような楽譜が売られていたな~とまったくの寄り道連想をしたものだった。原曲はシャープやフラットがたくさんついた嬰ナントカ調とかなのだけれど、ハ長調に移調してある(さらには少し音符も減らして弾きやすくしてくれているのかな?)。
そうするとそれは、原曲とはやはり違うものなんだろう。表そうとするものの一部でしかない、というか。
「調」のイメージは、一般的に言われていることもあるけれど、自分で感じているイメージを持って、言語化しておくといい、と言われた。感覚的なことが悪いわけではないけれど、ことばにして自分なりの柱にしておくこと。
調が何であるか、そしてその調のもつイメージと、その調でつくられた曲と向き合ってどう弾くか、どう弾きたいか。
気づきや感じたこと、考えは書き込む。弾くときの指針となるように。
だからどんどん書き込むように、ということなのだな、と思った。
ちょっと面白いなと思ったのは、異名同音の話。ひとつの音が付される記号によって名前が変わる、けど音は一つ――というのは、たしかに不思議だった。なにかしら意味はあるんだろうくらいの漠然とした受け止め方だったのだけれど、あらためて先生の口から聞くと頭のなかの漠々としたものが整理された気がした。
「たとえばミのフラットとレのシャープは、鍵盤上では同じキーだけど、曲の中では意味が違う。鍵盤上では同じキーだけど、違う音なの。シャープで表したい意味、またはフラットで表したい意味があるから。同じ音なのだけど、シャープじゃなくフラットで、あるいはフラットでなくシャープでないといけない、ってことなんだと思う」
たったそれだけのことだったけど、奇妙に納得してしまった。
鍵盤上では同じキーでも、理由があって違う音として表現されているから、当然違う音。
そう、そうだよね。そうに違いないよ。
この曲が何調なのか、ではその調に自分はどんなイメージを持っているのか。どんな曲なのか? 自分の気づきや感じたこと、考えも含めて書き込んでもいい。
自分で向き合う。
そう、”自分で”。
最近になって、「楽譜も、久しぶりに開くと、あ・ここはこうじゃないな、とか、新たな発見があったりして書き込みを足したり、変えたりする」とおっしゃっていた先生のことばを思い出す。
何も考えずにただ音だけ追って弾きたいときもあるけれど、ちょろっと書き込みのある楽譜を前にすると、急に「あ・あのときはこう思ったんだな~」などと、それに付随して諸々想起される。
いや、それほど書き込まれていないので、まったくもってきれいな楽譜なのに、それでもあれこれ芋づる式に思い出しすぎて、弾くどころじゃなくなることもある。
記憶の引き出しが刺激されるんだなあ……。
ああ、今回もとりとめなく書いてしまった。
また思い出された何かについて、つらつらと書くことになるね、きっと。
※見出し画像は、10年以上前の発表会の曲の楽譜の孫コピー。
職場で休憩時間に練習するためにさらにコピーをとったもの。先日デスクの整理中に発掘した。
孫コピーだから不鮮明というのはあるけれど、書き込み、全然ない!と言っていい笑。
はて、このあと本番用の楽譜にはもっと書き込んだのか?
……確認してみよう。