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『君たちはどう生きるか』- 分かりあえないまま私たちは生きていく(ネタバレあり)

『「君たちはどう生きるか」というタイトルだけど、どちらかというと宮崎駿が私はどう生きたかと語りかけてくる映画だ』
『この登場人物は宮崎駿を表していて、このキャラは鈴木 敏夫のメタファーで…』
公開当初、そんなレビューがよく目に留まった。
しかし私はどうしてもこの映画は、タイトル通り宮崎駿からの問いかけなのでは?と思えて仕方がなく、考えてみた。
「“私たち”はどうやって生きていけば良いのだろう」と。

人と人とが共に生きていくと、そこには必ず違和感やズレというものが発生する。
それはコピー&ペーストで作られた人間で無い以上、多かれ少なかれ仕方のないことだと思う。
その違いによる違和感やズレを火種に、人間は争い、軽蔑しあい、自身の正しさを主張しようとする。
SNSにおいて、今日も雑で無意味でトゲトゲした言葉の応酬が繰り広げられているのは、そのサービスには「ズレ」を様々な人たちに見せつけ、煽り立て、衝突させる事に都合がいい仕組みが備わっているからだろう。


ではどうすればいいのか。
「私」と「あなた」が仲良く同じ世界で生きていくためには、同じ思想・同じ価値観を持って生きていくしかないのだろうか。
「ズレ」を無くすことこそが素晴らしい世界を作り出す唯一の方法なのだろうか。


映画「君たちはどう生きるか」を見ていると、どの登場人物に対しても、どこか「ズレ」を感じてしまう自分に気がついた。
いや、むしろ観客が違和感や不快感を持つ要素を敢えて付与されているかのように感じた。

例えば本作のキービジュアルにも選ばれている青サギは、死んだ母の悪夢に魘される眞人を醜悪に真似て「オカアサーンオカアサーン」と鳴く。普通に最悪だ。見た目もハッキリ言って汚らしい。
何故眞人を下の世界に連れて行こうとするのか、彼は人間なのか鷺なのか、大伯父とはどういう関係なのか。その目的や出自が劇中で明かされることはなく、観客が感じる掴み所の無さは最後まで解決しない。
眞人に無理にお腹の子を触らせようとするナツコの眞人に対する接し方は何処となくぎこちないし、父は豪快な経営者だが機微には疎く、眞人が学校で因縁をつけられる理由を生んでいる。
ペリカンは可愛いわらわら達に躊躇なく襲いかかるし、ヒミはペリカンと共にわらわら達を躊躇なく焼き殺す。

殆どの登場人物に「ん?」と思わせるズレが付与されていることは本作の特徴の一つだろう。
ただよく考えてみれば、これは我々が暮らす現実世界と全く変わらない。
それぞれの人間がどんなことを考え、どんな心情に基づいて行動をしたのか、私たちは100%理解することなんて出来ない。
しかしそこを認識せず、自信の目に映る一面だけを基に、その人物を解釈し判断することによってズレや違和感はさらに増幅する。
我々観客は、他者への警戒心を持つ眞人の目を通して、“わからなさ”から発生するズレ(それは不信感であったり恐怖に繋がる)を追体験することになる。

そんなズレを持つ登場人物たちも、物語の終盤になると“いつのまにか”眞人と信頼関係を結び、協力して元の世界に戻ろうとする。
この“いつのまにか”感がこの映画もう一つの大きな特徴であり、少なくない観客が唐突さを感じる部分でもあるだろう。
青サギは直人を殺そうとしたことを謝りも反省もしないが、眞人は彼を「友達」だという。彼らは最終局面において何らかの同じ価値観を共有するに至ったのだろうか?
死んだペリカンを眞人は穴に埋めて埋葬する。彼はわらわらに対するペリカンの捕食行動を許したのだろうか?
"下の世界”に一人で向かい明確に眞人を拒絶したナツコの心情を、眞人は理解できたのだろうか。

私が思うに、彼らはお互いについて理解し合ってなどいないのだと思う。
眞人と青サギの関係性は顕著だ。一緒に水くみの作業をして一緒にお茶を飲んだ。そして眞人は青サギの嘴に空いた穴を埋めてやり、青サギはオウムの気を引くために空を飛んだ。
彼らは別に分かり合ってなどいないし、眞人は青サギの正体を何も知らない。眞人が青サギを「友達」と読んだのは、彼への理解によるものではなく、共に支え合った行動によるものだった。
もう一つ例としてあげたいのがペリカンとの対話だ。
眞人にとってペリカンはわらわらたちを捕食する「悪」の存在だった。しかしペリカンの持つバックグラウンドを知ったことにより眞人の感覚は変わる。
わらわらを襲うことを良しとする考えに切り替わったわけではないだろう。しかしある部分に関する思想の対立はあったとしても、丁重に埋葬するに値する相手であることを眞人は理解したのだ。
つまり眞人は共に作業を行うこと、また対話を通して相手を知ることによって各キャラクターたちとの関係性を構築していく。
キリコと一緒に魚を捌く工程を通して、母を失ったという同じ境遇をヒミと共有することによって、必死に自分を助けにきた父の姿を見て、そしてナツコの心情の吐露を目の当たりにすることによって、協力関係を築き上げた。
お互いの思想を擦り合わせ、同じ価値観を共有したわけではない。
眞人は彼らとの「ズレ」を修正しないまま、共に生きていくことにしたのだ。

彼らが同じ思想を共有することもなく信頼関係を築いていけたことは、我々の社会における希望のように感じる。
違和感や相違が溢れている事自体は、むしろ多様性のある社会の証だろう。しかし、この違いを個々の思い通りに修正しようとすれば、そこには軋轢が生まれることは避けられない。
この違いを理解しつつ共に歩むために試行錯誤する。つまりお互いの感覚や背景について対話を通して理解しあうこと。そして共に作業し行動すること。その先に理想的な社会があるのだと私は思う。

はっきり言って地道で泥臭い道のりだ。
自分の主義主張を相対する勢力に向けて投げつけること、相手を「悪」と見做し切り捨てることは、その地道さに比べれば楽な部分もあるし、何なら達成感すら生まれることもあるだろう。
私自身、自分の考えを明確に発信する事こそが良い世界を創るにあたり重要だと考えていた時期もあったし、主義主張のアウトプットを控えるべきだと思っているわけでもない。
しかし相手という存在を理解しないまま意見を投げつける行為が、現在の揚げ足を取り合う息苦しい社会を生み出す要因の一つであることは事実だろう。
意見を一方的にぶつけるのではなく「対話」を繰り返すことでしか、多様な人々が共に生きていく社会は成立しえない。
「ズレ」とは是正するべきものではなく、許容しあうべきものなのではないか。

宮崎駿の問いかけは「君はどう生きるか」ではない。
"君たち”つまり我々の社会はこれからどのように生きていくべきなのかについて、真剣に向き合うべきタイミングが来ている。
そんな風に言われているような気がしている。

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