「安藤広重」の歴史を知りたくて。 - 博物館の「作者名」の話
現在、東京都美術館で上野動物園に関する展覧会が開催されているのだが、展示作品の一つに「橋本周延」という作者名の浮世絵作品が。
「周延」という名前、あと作品の署名を見れば楊洲周延の作品だというのはすぐにわかるが、そういえば歌川広重も以前、安藤広重と呼んでいた時代があったなあと。「本名+号」の表記はどうやら広重だけではなかったらしい。
安藤広重が歌川広重と呼ばれるようになった経緯に関しては、太田記念美術館さんのnoteが詳しい。
これによると、どうやら戦前までは「安藤広重」と呼ぶ風潮があったが、本人の自称ではないことから戦後に入ってから「歌川広重」という呼び名が段階的に定着していったということらしい。
しかし、分からなかったのは「安藤広重」のような「本名+号」の書き方がいつ頃から始まり、また定着していったのか、その点が今ひとつ分からなかった。両作者の活動時期からして明治~大正期に定着した表記であると考えるのが自然だけど、もう少し確定的な資料・データが欲しい。
この点が少し厄介なのは彼らの作品を検索するときで、「歌川広重」以外にも「安藤広重」でも一度検索をかける必要がある。
たとえば東京都の所蔵作品を検索できるToMuCoで広重を検索すると
「歌川広重」743件
「安藤広重」0件
となり、こちらに関しては「歌川広重」で検索しても全く問題ないことがわかる。Google Scholar掲載の論文で、ある研究者が強く反発しているのも読んだことがあるし、広重自身の高い著名性が影響を与えているのかなとも推察される。
一方で、広重ほどの著名性を持たない楊洲周延の場合、これがなかなかややこしい。まず検索結果は以下の通り。
「楊洲周延」30件
「楊州周延」7件
「揚州周延」1件
「橋本周延」107件
一般的な「楊洲周延」、前述の「橋本周延」のほか、省略的な表記と思われる「揚州周延」についても検索をしなければならない。下の名前で「周延」(146件)のみで検索すれば問題無いのだろうけど、「周󠄀延󠄁」(0件)という旧字体表記もあるためまだまだ気は抜けない。
ToMuCoの周延コレクションの全てが江戸東京博物館所蔵である点も興味深い。ということは、作品名の登録の際に決まったルールが存在せず、その時々の基準で名前が決められている可能性がある。
浮世絵のケースとは違うけど、博物館・美術館の「作者名」という部分では「藤田嗣治」も気になっている。彼は戦後、フランスに帰化して「レオナール・フジタ」に改名しているからである。
とはいえ、美術館であえて「レオナール・フジタ」と紹介していたケースは正直観たような、観てないような…程度の記憶だ。国立博物館のデータベースも全て「藤田嗣治」で統一されているし、「観た」という記憶がひょっとして間違いな気すらしているが、今後の可能性として彼が「レオナール・フジタ」が登録される可能性も(楊洲周延のケースを見れば)全く無いわけでも無さそうである。
用事の合間にこの記事を書いていることもあり、調べ不足な点もあるとは思うが、取り急ぎ。