40歳と老眼鏡
少し前から目の調子が悪いとは思っていた。
受験勉強で急激に視力を落とした大学の時以来、基本的には眼鏡着用で過ごしていたのだが、ここ何年か、「眼鏡をかけないほうがかえってよく見える」ということがちょくちょくあった。たとえば美術館で作品を観るときも、眼鏡越しに作品を観るのではなく、上目遣いで作品を観てしまったり、鬱陶しくなって眼鏡自体を外してしまうこともある。
今考えればそれが老眼の始まりだったのかもしれないが、「自分が老眼である」とは一切考えていなかった。38〜39歳の自分が老眼であるとはすぐには思いにくく、裸眼のほうがよく見えるというのなら眼鏡を外せばいいだけのこと。美術鑑賞では、むしろ裸眼で見ることによって得られた発見や感動というのもある。
日常生活において特段の支障があるわけでもなく、そこで何かすべきことがあるとは考えていなかった。
しかし、読書の場合はそうもいかない。
普段の眼鏡、あるいは裸眼だと目の焦点がうまくあわず、だんだんと目がチカチカして、数分で読むのに疲れてしまう。Kindleとかであればまだ文字サイズを変更するという方法もあるけど、紙の本ではそういうわけにもいかないし、光る画面を長時間見る形になるので、結局やっぱり疲れてくる。
それでも我慢して、なんとか本は読むのだが、一冊読むたびに疲れてしまって、なかなか数をこなせない。本当はもっとたくさん本を読みたいのに… 溜まっていく積読を前に、悶々とした気持ちも積み重なっていく。
そんな折、予定されていた二度目の手術の前に、検査のために1泊2日の入院をすることとなった。その際、担当看護師と問診票みたいなのを交えつつ、入院前の面談を行うのだが、その際に眼鏡の着用有無に関して、「最近外していることもある」と打ち明けた。
看護師は事務的に「そうなんですね」ぐらいの返答だったが、それを聞いた私の口が突如、
「ひょっとしたら老眼かもしれない」
と声を発した。自分自身で過去そういうことを考えたつもりはなかったのだが、無意識のうちに(ひょっとして…?)とは思っていたのかもしれない。
そんな入院予定患者に対し、担当看護師は先ほどと同じテンションで「なるほど」と言い、問診票の脇に「老眼」と書き加えたのみだった。
そして、そこから実際に老眼鏡をダイソーで購入したのは2週間後の話である。
老眼鏡に書いてある「+いくつ」というのがそもそもどういうことなのかがわからないが、とりあえずその場で着用してみて、一番しっくり来る+1.0を、私は少々頭が大きいので、サイズの融通の聞くスプリングのついたものを購入。110円。
そして家に帰ってから本を開いてみたら、まぁ読めること読めること。ページ全体がとてもクリアで、以前のように目がチカチカする感じも一切無い。ものの数時間で私は一冊、その手にした本を読み終えてしまった。
この老眼鏡で周囲を見回しても全体がボヤっとするばかりで、この眼鏡で日常生活を送ることはまずできない。しかし、読書をする分にはむしろ積極的に老眼鏡にお世話になってしまったほうがいいと感じた。
それにしても、さすがに年を取ったなと思う。
「まだまだ若い」と言われようが、老眼鏡が本格的に役に立つようになってしまった以上、そういう言葉を全く真に受けるわけにもいかない。若者ぶって老眼鏡を拒絶し、読むべき本を読まないというのも本末転倒というものだろう。
手術を経験したことも、ひょっとしたら心境の大きな変化かもしれない。その手術が規模がそこそこ大きかったこともあってか、どうしても「持ち時間」というものはどこかで意識してしまう。そういうことは映画『生きる』を観て知っていたつもりだったが、実際その身に置くことで、そのことがさらによく分かる(余命宣告を受けたわけではないが)。
そんな時、自分が何をしたいか、あるいは何をすべきか… それを考えたとき、やはり文章を書きたいし、その文章をもう少しマシに書くためにも本を読みたい。
そんな時、眼鏡に『老』がついているかどうかなんて、たいして重要なことではない。