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読書日記「断片的なものの社会学」

ここ半年ほどだろうか。いやもしかしたら1年以上くらいになるかな。
自分の中で少しづつだけれど、じわじわと変化しているのを感じる。それまでだって、毎年毎年、変化しているなあと思ってきてはいた。
今年は仕事が変わった(辞めた)、彼女もできた(それは別れた)、引っ越したなどなど・・
そうして自分の環境を変えることを、「自分の変化」と勘違いしていた節がある。これはいかんね。

変わり始めたのは、やっぱりパートナーができたことだ。
自分とは生きるペースが全然違う相手と時間と空間を共にすることで、
「今年は」とか「去年より~できるようになった」とかではない、
じわじわとこちらのペースが落ちていく(いい意味で)ような、
そのおかげで景色が少しよく見えるようになったり、そうなると自分のことも前より落ち着いてみたり考えたりすることができるようになってきた。

母親に言わせれば、おれは「丸くなった」らしい。
どこか攻撃的で、つんつんとげとげしていた20代のころとは、確かに生きているペースが変わってきている。
それが丸くなった、ということなら、それはいい変化だろう。
まあ、猫と暮らすようになった、ということも、そしてその猫はパートナーと2人で1つみたいなそんなペアだから、
そんな2人といっしょにいることが、そういういい変化をもたらしてくれているのは間違いない。本当によかった。ありがとう。

で、断片的ということについて。
結論から言うと、だれかの人生の物語を聞かせてもらうことは、ものすごく、自分自身の安心感につながるものなのだと感じた。

人間は断片的なものの寄せ集め。記憶も、価値観も、知識も。
だから、みんなが自分の中に矛盾を抱えており、不安で、いらいらし、目を背けたくなることばかりだ。

断片的で矛盾があるから、言葉に詰まったり、ならなかったり、立ちすくむ。
それを無理やり笑顔でごまかしたり、言い切ったり、「論破」するから、ますます矛盾が化石化してしまう。

断片的である人生をそのまま、引き出してじっと耳を傾けてくれる聞き手がいれば、どれだけ心が軽くなるだろうか。
断片的で、運命的で、直感的な人の人生というものを、データにせず、平均にならさず、垣間見ることで初めて、その人が生きてきた背景、つまり社会の一端が実感として、あるいは想像の中に像を結んでくるのではないか。

社会学者として、人の話を聞き取ること、そしてそれを論文として仕上げていくこと、つまり、データとしてあるいは、筋道立てて論じていくこととの矛盾を抱え込むことが宿命的な筆者が、
「言葉にならない」と何度も書き表してくれている。

うまく言えなくていいや、効率が悪くてもいいや、とりとめがなくていいや
そうやって、私は人と会うということに一歩踏み出すための、なんだろう、
何かを得ることができた。

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