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【mom】切なくて寂しくて、自分を責めてしまうのは自然なこと | くも膜下出血、失語症と闘う母と家族の話


これまで、いくつかの記事を通して、

母が突然倒れた日のことから、
直近までの私のメモをそのまま記録してきました。


直近の記事はこちら:


今回は、もう少し客観的に

病気の前の母と私の関係から、
母が入院していた時期に感じていたことなどを

振り返ります。


これまでの母に関する記事を

読んでくださった方も、
そうでない方も、

今回もよければお付き合いください...!


母、入院する(2023/3/28〜2023/7/16)


母が病気する前、私(と妹)と母は、

なんでも話せる親子であり、
親友でもある、

そんな関係でした。


特に母は、

恋バナから、学校での人間関係
勉強のことや、将来のことなど

本当になんでも共有して、話し合える存在で、

私が決断に迷った時
いつも相談して、足りない観点や、母親としての意見も伝えてくれる

人生における一番のメンター的存在でも
ありました。


そんな母が突然倒れ、命は助かったものの

言葉が上手に話せなくなり
高度脳機能障害になって


私は母であると同時に、

1人のかけがえのないメンター
そして親友を失ってしまった感覚を

1年以上ずっと、もち続けていました。


3ヶ月の入院中は一度も会えず

母の病状や様子もよくわからず、


LINEでくるメッセージは

解読が難しいものも多くて、
コミュニケーションがうまく取れない。


本人はいろいろなことを
伝えようとしてくれているのに、

それが受け止められない状況が

とても辛かったです。

LINEでは、これまで見たことのない 
母の一面も見えたりして

病院の売店でお菓子が買いたいからお金を持ってきてほしいと言われて、
母は当時食事管理もされていたので、
「今度病院に行って先生に聞いて、OKだったらね」と返信したら、
「もういいよ、かりんまでそんなこと言って」といった趣旨のLINEが返ってきて、
「えええ、お母さん、そんなこと言うんだ」と、当時はだいぶショックだったのを覚えています。今では笑い話ですが。笑

家族にも、友人にも、職場でも、
(ましてや、入院先の病院でも。笑)

母は常ににこにこしていて


辛いことや嫌なことがあっても、

人に当たったりせず
いつも気がついたら切り替えて、

前に進んでいました。


すごく強い人だなと思います。


今思えば

母が必死に子育てしてきた20年間ほどは
ずっと気が張り詰めていて

脳に障害をおって
フィルターがかかりにくくなったことで、

娘には見せていなかった一面(≒ 本来の母の一面)を見れるようになったのかなと思います。

(ちなみに、退院してから1年ちょっと経ちますが、このような意味では、母は病気する前の母にだいぶ近づいてきたなと思います。
いつもの、にこにこお母さんです。)


母が倒れたのは
私が新卒で入社する6日前だったこともあり、

私は入社したばかりの会社で
日々いろいろなことを経験し、

それを母と語り合えないこと

悩み相談ができないことが


とても辛く、寂しかったです。



「今日、同期の〇〇と話してたら、最寄りが近いことがわかったの!」

「今日お弁当を作ってたら、ごまを大量にこぼしちゃったんだよね...ショックだった〜泣」

といった

本当に何気ない、
でも誰かに言えると、

ちょっと心が軽くなったり
喜びを分かち合える

そんな会話ができないのが本当に寂しかったです。


確かにLINEをしたら、

母はいつも何かと返事をくれましたが、

どこまで伝わっているのかもよくわからず、

母も返事を打つのが難しいのか
いつも短い返事だったり、

母が書いてくれている内容が
理解できなかったりして、



LINEできる喜びと
つながっている喜びがあるのと同時に、


母の失語症の現実を
突きつけられるようにも感じてしまって、


LINEしたいけど、辛くてなかなかできない

というジレンマをずっと抱えていました。


この時期は、中高からの親友にお願いして、  

わざわざ離れた家族や
友人にLINEするほどでもない

でも誰かにちょっと言いたい、

そんな内容をLINEさせてもらっていました。


そんな風に寄り添ってくれた友達たちには、
本当に感謝しています。


父は家にいましたが、

父も母の病院や職場に行って手続きをしたり、

母のクレジットカードの引き落としや、
母が契約していたサブスクなどの管理

そして自分の仕事も両立していたので

なかなかゆっくり話す時間が取れませんでした。

母が入院中は、私が母の友達と連絡を取り合って、
予め予定されていたランチ等のキャンセルや、
母の様子やお見舞いの可否などをお伝えしていました。


いろいろなことを抱えながらも、


父は、私が会社のイベントや飲み会で
帰りが遅くなった時は、

深夜近くなっても必ず駅まで迎えにきてくれたり


できる時は簡単な夕飯を用意してくれていたり
お風呂を洗っていてくれたり、

猫の餌やりや、トイレ掃除をしてくれていたり、


逆にできない時はLINEで

「今日はご飯ないです。」

って丁寧に連絡くれたりもして


そんな父の気遣いが

温かかったし、ありがたかったし、

同時に、母がいればきっと母がやってくれていたんだな、と思ってしまうこともあって、

切なく感じたことも多かったです。


お互い家にいる時間があるときは、

会社でこんなことがあってね、
と話したりしていましたが


当時はまだ

2人とも母のことがショックで、
母と会えない不安も大きくて、

今振り返ると
とても暗くて、互いに辛い時間だったなと思います。

私は

「一度でいいから、病気する前の母に会いたい」

と泣いて、父を困らせたこともありました。


本当は生き延びてくれただけで
ありがたいと思わないといけないのに、

そして今一番頑張っているのは、母本人なのに


母はきっと自分のせいで苦しんでいる
家族の姿なんて見たくないだろうし、

見たら悲しむだろうし


退院を待っている家族は、
元気に母の帰りを待っていないといけないのに

そんな思いがよぎりつつも、
やっぱり現実を受け入れられなくて、

自分を責めてしまう瞬間がたくさんありました。

母に会いたいとずっと思っているはずなのに、
母の退院は正直すっごく怖かったです。
母の失語症の現実をLINEではなく、毎日何時間も目の当たりにすると思うと、
受け止め切れるかすごく不安だったのを覚えています。

最後に

今回は母が入院していた頃を振り返りました。


ただ実際には、
最後の方に書いている

現実を受け入れられず、

自分を責めたり、

母を受け入れられなくて
一緒にいる時間が辛く、切なく感じた時間は

母が退院して半年以上経った今年に入ってからも 

しばらく続きました。


ただ、そんな状態を、
少し乗り越えられた経験が

休職を決めてからの経験でした。

それについては前回の記事で書いているのと


次回の記事でもまた書こうと思っています(追記:下記)。


このような状況になったら、

いろいろな感情が交差して、
自分を責めたくなる時がくるのも

ある意味、当たり前かなと思います。


次回の記事では、 

自分を責めなくてもいい 

と思えた、
そんな経験についても書こうと思っています。


またぜひ、
覗きにきてくださいね。

それでは、
Karin



次回の記事はこちら:

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