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播磨陰陽師の独り言・第三百十七話「七夕の節句のこと」
もうすぐ七月七日、七夕ですね。
この日に食べる物として素麺が知られています。元々は〈索餅〉と呼ばれるお菓子のようなものを食べていたものが変化したものです。一般では素麺を食べるようになりました。そのあたりの由来が、江戸時代に大阪で書かれた『蘆分船』に残されていました。
——唐土が秦と呼ばれていた頃のこと。高幸氏に待望の息子が産まれた。しかし、彼は幼くして亡くなってしまった。七月七日のことである。
その魂は浮かばれず、魄鬼となった。やがてその悪霊は、人の世に瘡の病をもたらした。
幼な子は、生前、ネギと索餅を好んで食べた。そのこともあって、ある年、供養のため、索餅を供えたことがあった。すると、その年は病になる者が出なかった。そのことが、わが国に伝わって、七夕に宮中で索餅を調理し供えることになった。
索餅は、別名〈むぎなわ〉と呼ばれる菓子で、小麦粉を練って油で揚げたものである。当時、油は高価なため、一般民衆の手には入らなかった。下々には、索餅に似た素麺があり、巨担の筋として、七夕に噛む風習があった。その風習とあいまって、末々に至るまで七夕には素麺を供え、あるいは食べるようになったと言う。
また、七夕には仙翁花の花を贈る風習があった。これは、古くは乞巧奠と申す宮中の儀式で織姫・彦星の二ツ星を祀り、香りのある花を供えたため、やがて、下々の者も花を贈るようになったものである。
仙翁花とは、嵯峨野の仙翁寺で栽培され、はじめて採取されたので、この名がある。この花は、その昔、唐土から伝わったナデシコ科の多年草である。
乞巧奠は、唐土より起った儀式のひとつで〈七夕祭り〉とも申した。
御殿の庭に机を四脚立てて、ロウソク九本に火を点し、机の上の火を一晩中絶やさずに、香など様々な焚き物が行われた。また、琴を弾き、盥に水を入れて大空の星を写して眺めた。
天平勝宝七年(756)に、はじめて宮中で行われた。香り花や供え物を整え、庭に願い事を書いた文を置き、竿の端に五色の糸を掛けて、一事を祈ると三年の内に必ず叶うとも言われた。
これ故、「乞えば巧みなり」と言う意味で〈乞巧〉と呼ばれるようになったと言う。
これらは、古くは、唐土の托降 が胸中の願いを短冊に書き、阮康が竿の上に布をつけて祈った例に準えて行われるものである。
年中行事歌合わせの為邦朝臣の歌に、
——七夕に 今日は手向くる 琴の音の
たえぬや秋の 契りなるらん
と、昔の七夕のことが謳われている。
また、七月七日、よろずの宝物を舟車に積んで祈ることがあった。これを天の名種と言う。
——今日はとて 天の名種の とりどりに
舟と車や 七夕のもの
と歌が残されている。
昔、七夕の織姫には七つの名があった。
それは、さかかに姫、にわう姫、百子姫、袖貸す姫、織姫、梶葉姫、横姫と言う名である。これらは、織姫・彦星の物語にちなんだ名であり、昔は良く知られていた。
地域によっては、まだ、これら織姫の別名が知られていることがあります。しかし、牽牛の別名は彦星しかありません。この名は天若彦の彦星のことです。この名が大人になると、天彦になり、厄病除けの祓いに使われる神の一種になります。そして、数々の誤解と写し間違いで、最近、流行りの〈アマビエ〉に変化したと言う訳です。姿は半魚人ではなく、イルカに近いですが……。
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