社会に生きること‐勉強‐
頭の良さについて最近考えている。
様々な選択肢があって、様々な生活環境がある現代。
生まれてすぐに、自分自身の子どもに英会話教室やそろばん教室に行く機会を与えている家庭も、学校教育以上の教育を与えない(られない)家庭もある。
わたしの見ている範囲で、小さいころから塾に行くと「頭がよくなる」という傾向はみられない気がする。やはり、人それぞれの性格・能力があって、与えられているだけでは処理しきれないのかもしれない。
中学受験は親が大事
ってよくいう。そりゃそうで、小学生が進んで勉強するということはなかなかない(もちろん勤勉な小学生もいる)
どうして、そんなに遊びたいんだろう
いや、なんで勉強ってするんだろう
自分自身の幼少期を振り返ると、やはり「勉強する」意義というものが、わからなくて、とりあえず「頭がいい=良いこと」という世界観で自分自身を高めるためのコンテンツの一つとしてしか勉強を見ていなかった。勉強ができると勝った気になる。そんな感じ。あの当時の私には知的好奇心とやらはなかった。(たぶんね)
いま、大人になって、中学受験生を見ていると、「中学受験」というコンテンツは知的好奇心を刺激するにはあまりにも情報が多く「能動性」をはぐくまない気がする。
この算数の問題を解けるようになるために、公式を覚えようね
といったところで、「その算数の問題を解けることの意義」の説明はない。しいて言えば、「中学生になってから楽だよ」という言説くらい。
だったら、遊びたくなる。わかるかもしれない。
公立の中学校に行った生徒の中には、小学校の教育が抜けきっている人がいる。授業についていけないけれど、担任も救いきれなくて駆け込み寺のように塾に駆け込んでくる。
ついていけない・理解不能な授業にただ存在する「わたし」という構造。想像するだけで、ちょっと寂しい。「わからない」が積み重なれば、やがて「できない」の塊になる。「できない」の塊になると「頭のわるい子」というレッテルが張られる。そして、「努力しないから成績が伸びないんだ」とか、根本的な問題を見つめてもらえずにちょっとずつ周りが遠くなっていく。ちがうのにな~。もう何がわからなくて、どうしたらできるのかも分からなし、今やっていることはなんなのかがわからないのにな~
「頭の良さ」ってなんだろう。
我々は、幼いころから、点数が高いとほめられ、「頭がいい」といわれる。
「頭がいい」ってなんだ。「頭がわるい」のはなんだ。
勝手に「問題処理能力ゲーム(テスト)」の点数だけを見て、人の頭に優劣なんてつけないでいただきたい。
・・・
子どもが親に聞く。「なんで勉強するの?」
親はこう答えるだろう。
「いい大学に行くためよ」「いいお仕事に就くためよ」
将来のためよ
・・・
勉強は、将来のためにする。あながち間違ってはいない。様々な職業に就ける可能性が与えられた社会で、勉強をしておけば将来の選択肢の幅をぐっと広げてくれる。
でも、勉強は、「受験」やその結果の「いい企業・いい給料」のためにするものなのだろうか。
社会に生きるということは、他者と接するということ。分業化の進んだ社会では、自分一人の力で生きるというのは簡単なことではない。そんな中で、他者という存在にいかに自分自身が支えられているのかを自覚し、他者のために自分自身ができることは何か、その結果自分自身が過ごしやすい社会・周りの人たちが過ごしやすい社会とは何かを見つめていけるようになると、きっと安定した社会とやらが構築されるのではないかと私は思っている。
その時に、視野を広げてくれて、様々な観点を教えてくれるのが勉強
だから勉強は、自己と他者、ひいては今生きている社会を見つめるためにするのではないだろうか。
「個性」が重要視され「自分一人で生きていく」という感覚が何となく強い現在、他者に支えられている(逆に、踏み台にしてしまった存在がいる)ということに無自覚なひとが多い気がする(自戒の念)
政治に関心がない もきっとその代表で、今まで生きていた世界に当たり前に存在してきた枠組みという見なし方がなされて、自分自身との関連性をなきものにしてしまう。
なんだか、「勉強することの意義」が希薄で、実用的なものが役に立つとされて、すぐに結果を求められてしまう社会に発展なんてあるのかな~と思ってしまう。
いちど立ち止まる余裕のない社会に、大切なものを見つめられる時間はあるのだろうか。
勤勉・勤労 良いこと そうかもしれないけれど
なんのための勤勉で、なんのための勤労なのか
そんなことが分からなくなってしまったら、感謝もなにもなければ、自分自身を見失ったり、自分自身を譲れなくなって当然な気もする
ちょっと最近の愚痴でした。