私のルッキズムへの理解がいかに貧相であるか
ルッキズムがなんなのかわからない。
ルッキズムには反対したい。容姿による差別なんておかしいに決まっている。しかし、ルッキズムについて考えていると、何が容姿による差別なのかわからなくなる。
まず、容姿とは何なのか。
外見、と言い換えてもいいかもしれない。生まれ持った変えられない土台のことだと言う人もいるだろう。
そういう人にとって容姿は変えられるもので、ファッションやメイク、髪型を工夫することによって自分をいくらでも魅力的に見せることができるし、個性を個性と認めさせたもの勝ちだ。
じゃあ「土台を変えること」はどういう扱いになるのだろうか。ルッキズムへの屈服?
今は整形も庶民の手の届くものになっているけれど、整形やダイエットは「不自然だ」と切り捨てるのだろうか、努力の範囲に含まれるのだろうか。整形やダイエットを肯定するのも否定するのもまずい。
肯定するのがまずいのは、整形やダイエットはそもそもルッキズムから生まれたものだから。否定するのがまずいのは、その人らしさ=個性を追求するのに、使える手段を使うことを推奨しないなんておかしいから。
「外見差別してはならない」を「生まれ持った変えられない土台で差別してはならない」に置き換えるのには他にも問題点がある。
「伸びしろ」があるにもかかわらず、精神的な事情や経済的な事情で「個性を魅せる」余裕なんてない人は差別されても仕方がないことになるのだろうか。
そんなことはないはずだ。世の中には色々な事情を抱える人がいるのだから、それをまるっきり無視して「努力でどうにかなること」のように言うのはおかしい。
さて、ここまで考えると、「それならどんな格好で人からどう見えていても差別されてはならないのか?」という話になる。私たちはここで「身だしなみ」を有害な社会通念として捨てなくてはならない。だってどんな容姿でも平等に扱われるべきなのだから。
すでに「容姿」の指し示す範囲は身だしなみにまで伸びている。あれ、容姿ってそういう意味だっけ。(フリーズ)
では、差別とはなんだろうか。差別が差異化し、序列化し、排除することだとしたら、まずは排除、容姿を理由に人を特定の場所から締め出したり、いじめたりすることは言語道断だ。(ここでは容姿が何かは一旦置いておく。いじめはその場に居づらくするという点で排除であるといえる。)
次に序列化(差異化はともかく序列化は差別として機能することがある)、クラスで誰が一番容姿において劣っていると順位をつけたり、容姿によって他の面でも劣ったものとして扱ったりすることは差別だ。では逆に、美しい人をもてはやす場合はどうだろう。身近なものでいえば、ミスコンで順位をつけるとか(ミスコンは女性差別の問題が絡むのでややこしい。容姿以外の要素もあるなんてのは屁理屈なのでやめていただきたい)、そうでなくとも誰かを美しいことを理由に、特定の仕事や役目に適任だと選ぶことがある。これも差別なのだろうか。
ここで、容姿も能力のひとつなのだから、優れた能力持たないことで貶めるのは悪くても、持っていることで高く評価し扱いを変えるのは正当だろう、と考える人がいるかもしれない。
しかしその考えは、「能力による序列化は差別ではない」という前提に立っている。果たしてその前提は正しいのか?かつては生まれた家によって身分が違うことも、肌の色によって差別をすることも一般には問題視されていなかった。私たちにとっての当たり前、ここまでは了解していいだろうと出発点にしたいところですら、何十年後何百年後には差別であると判明している可能性があるのだ。私には能力による差別の存在を否定できない。(フリーズ)
そういうわけで、私にはルッキズムがなんなのかわからない。わからないけれど、反対している。外見差別反対。