言葉は刃にも、薬にもなる
私は長年、言葉の殺傷能力のほうに長年関心を持っていた人間である。
何故なら、たった何気なく一言冗談で言ったつもりの言葉が相手にとっては刃-やいば-になり、そこから口も聞かない関係になることもあった。
逆に驚くほど傷つかされたこともある。
そして気に病んでしまうことさえあった。
わたしはそのくらいに言葉を発するということは責任重大であり、常日頃の課題であった。
そんなネガティブなイメージだった言葉の発信に対して最近は何故か少しずつポジティブに捉えらえられるようになってきている。
やさしいの連鎖
というのも最近わたしが突然発した言葉がある人の救いになったと強く感謝されたことがあった。
具体的には、旦那さんのお婆ちゃんが亡くなった葬儀に参加させていただいたとき、
夜中そのお婆ちゃんの入った棺と同室で夜を過ごした親族の方が
棺桶からコツコツコツ、と5回物音がして怖い思いをして寝れなかったとおっしゃっていた。
私は運良く生前1度だけ、病院の面会でお会いすることができたからこそ印象的だった言葉があった。
耳も聞こえにくく、前日まで高熱もあって、ほとんど生きる気力を失い始めていたお義祖母さまだったが、
(きてくれて)ありがとう、ありがとう。
と掠れた声で何度も言ってくれたのだ。
それが最初で最後の出会いになってしまったのだが…
痩せ細って、力も失っているはずのお婆ちゃんから発せられる言葉に私はすごくあたたかいものを感じたのをおぼえている。
実際何度もお見舞いにいってる身内の方もその時が一番元気だったというくらい喜んでくれていたそうなのだ。
なのでその親族の方が言っていたコツコツコツコツコツといった5回の合図は
を伝えたかったのではないだろうかと思い、それを伝えたのだ。
すると、
そんな考え方は思いつきもしなかった、そう言ってくれてとても救われた気持ちになったありがとうね。と言われた。
後日も旦那さんを通じて、あの時のあの言葉がとても救われたと、今でも言っていただくくらいその方に効果があったそうで、その言葉を思い出して涙することがあるそうだった。
招く側であったので気丈に振る舞っていたいたがかなりショックを受けられていたのであろう。わたしの何気ない一言がその人のわずかかもしれないが救いになり嬉しい気持ちになった。
どうやら自覚はないが、優しいところがけっこう私にはあるようだ。
また、角度の違ったところでいわれたのが電話対応だ。わたしが営業の電話を無碍にせず、丁寧に対応していたところ
やさしいっすね。と言われた。
相手が一生懸命で一方的ではなく、もし困っていたらいかがでしょうか?といったスマートなスタイルだったので、相手に合わせてお断りをしていたら、そういわれたのだ。
これって優しいんだなあ、と思った。普通に人間同士なのだから、適切な会話のキャッチボールをしていただけの感覚だったのだ。
また、隣の営業所で支払いが滞ってしまっていたときに、請求書の送り主に謝罪と本日中に支払う旨を連絡した際も、隣で聞いていた同僚が、完璧な電話対応でしたね、と褒めてもらえたり、
今度新しく来る人のために机をせっせと綺麗にしてあげていたら、優しいねえ、と言われた。
最近妙に優しいと言われることが増えて自分でも何なんだろうこれは?と思って振り返ってみると
おそらく自分のキャパシティ(容量)みたいなものが広がっているのかなあと思った。どんな容量かというと人を許せる容量というのが適切だろうか。
みんな人々はこれは非常識だ、とか
こんな人は許せないといった物差しがあると思うが
わたしはその物差しが広くなっていっている感覚である。排他的というより博愛的といえるだろうか。
つまり優しさとは許せることであるのではないのだろうか。
人はなかなか、自分との違いを受け入れることが難しいけれど、こういう考え方もあるよね、と相手を受け入れることが優しさがうまれる第1歩なのかもしれないと思ったのだ。
さいごに
いろいろと話が右往左往してしまったが集約すると、せっかく同じ言葉を発するなら刃としてではなく人を癒すための道具として言葉を使用すべきであるとわたしは考える。
言葉にお金はかからないし、すぐにでも変えられることだからこそ、気持ちのいい言葉遣いをこれからも続けていきたい。