ふんわり、自殺を受け止めて
皆さんは、自殺したくなったことはありますか?僕はあります。晴らしようのない悩みごとで鬱屈とし、黒い感情を反芻していると、完全な逃避である「自殺」という甘美な響きに吸い付けられるんですね。そんな時の対処法!みたいな記事はインターネットに山ほど転がっていますが、自殺自体を思考の対象とするものは、それに比べてかなり少ないです。それに一石を投じたくて、この記事を書くことにしました。
「自殺」という言葉を聞くと、半ばヒステリックに、「そんなこと言うんじゃない!」と騒ぎ立てる人がいます。しかし、彼らに「どうして自殺が悪いことか、教えてくれない?」と聞けば、間違いなく「そんなの当たり前じゃないか。なんで死ぬ方が良いなんてことがあり得るんだ」としか返ってきません。これは全く論理的ではありません。どうも、昔から「死」という概念はタブーとして扱われるようで、話題にあげることさえ憚られる節があります。何か皆に共通する認識が既に存在すると決めつけ、「当たり前」という便利なフレーズで議論を放棄されがちです。
───自殺は軽蔑や恐れや非難が入り混じった目で見られてしまうので、自殺について冷静に明晰に論じることは難しいという風潮が、私たちの文化にははびこっている。自殺をするなんて頭がどうかしてしまったのだと、たいていの人は考える。それどころか、自殺を考えるということ自体が、正気ではない証拠なのだ。そして、もし正気だとしたら、不道徳ということになる。自殺はけっして道徳的に正しい行為ではないと、たいていの人は言う。だから、このテーマについて考えると、どうしても感情論になりがちだ。
僕の発想は、これと全く同じです。しかし、こうした姿勢は死への理解を妨げる大きな壁となります。頭ごなしに「悪いものは悪いんだ」と言っても、そんなので納得できる人は、良く言えば素直、悪く言えば思考停止です。また、議論が発生しない環境だからこそ、自分なりの結論を得ないまま、安易に死を選ぶ人がいるというのは飛躍でしょうか。
少し話が逸れました。まず、自殺はそもそも悪いことなのか、考えてみたいと思います。
自殺はそもそも悪いことなのか?
「自殺は悪い」とする論拠としてよく見かける、①残された知人が苦しむから、②道徳的に許されないから、③死は良いことたりえないから、の三点を取り上げて考えてみます。他にも論拠はあるでしょうが、今回はこれらということで。
なお、数学の本にありがちな「読者への課題とする」、あるいは哲学の本にありがちな「疑い方だけ提起して宙ぶらりん」を乱発します。また、やや曖昧な言葉の定義を片端から確認することはせず、カジュアルな考察にとどめます。主義信条のために命を落とす、究極の意思表示としての自殺や、目的を持って、その結果確実に死ぬ行動をとる自殺は例外とし、ここでは考えません(読者への課題とする)。それでは、①から行きましょう。
①:残された知人が苦しむから
これは、二つの視点から猜疑できると思います。
一つは、自殺するほど思い悩む当事者が、他人の感情のためにそれを押し殺すのは、果たして良いことなのかという観点です。哲学書ならば間違いなく「良い」とは何か?が始まりますが、今回はカジュアルめな考察を目指しているので、適度に流していきます。
想像される他人の感情を「自殺したくない」と考えるファクターに取り入れることはできますが、それは自殺自体が悪である理由たりえません。なぜなら、「誰からも認知されておらず、自殺したことさえ知られない人」を想定することができるからです。あるいは、「想定される他人の感情的な苦しみを加味しても、自殺することの方が自殺しようとする人にとってメリットが大きいから」という場合、(合理主義的に考え、道徳的にどうかは後の二つで扱うとすれば)自殺は正当化されうるからです。
もう一つは、そもそも死後のことを自殺する当人が考える必要はあるのかということです。死後は当人は存在しません(霊魂として彷徨うとか、天国/地獄から現世を観測できるとかは考えません)。存在しないという状態では、世界について一切の知覚も干渉もできず、受けないばかりか、自我さえも存在しません。ある人にとっての世界は、その人が存在することによって初めて存在しうると考えれば、死後を勘定に入れる意味がありません。もちろん、勝手に考えて、自殺しないファクターに入れることは可能ですが、義務ではないということです。
以上二つの観点が妥当かどうかは、もちろん読者の皆さんが評価すべきことです。しかし、個人的にはこの理由はあまり正当でないと思っています。感情論的にはかなりしっくりきますが、一般化された「自殺」への否定理由としては不足であると考えます。
②:道徳的に許されないから
これは、②-1:神/仏の意思に背くから、②-2:自殺は貰った命を捨てることで、道義に反するから、②-3:死という悪い結果を招く行為を推奨する道徳は存在しえないから、の3つに細分化されます。しかし、②-3は③についての議論を必要とし、また③と主張の真偽が一致するので、ここでは省略することとします。
それでは、②-1から。これは明らかに妥当ではないと思われます。なぜなら、人の命を助ける行為も、「神/仏の意思に背く行為」であり、不道徳となるからです。これを「神/仏はそれさえも織り込んでおられたのだ」とするならば、自殺も同様です。
次に②-2で、これは生を受けることが「良い」こととしていますが、死が悪いことか猜疑している今、これも自明ではありません。③でも触れますが、生は悪いことたりえます。つまり、命は「いただいたもの」でなく、「押し付けられたもの」である可能性を考慮外に置いています。③の考察を通し、「死は良いことたりえるな」と思う人ならば、道義に反すると感じる必要はありません。押し付けることは道徳的ではありませんから。
③:死は良いことたりえないから
今回僕が一番論じたかったテーマです。多くの人は自殺をこの理由で否定しますが、よく考えると自明なことではありません。死をタブーとする風潮が思考を阻害し、自明であると誤認させがちですが、そうしたものは全て隅に置いて考えていきましょう。
一体、死はどうして悪いこととされるのでしょうか。本来であれば、そもそも「死」とは何か、から始めるべきものですが、割愛します。いくつか見ていきましょう。
残される人にとって悪いことだから
これは先ほど①で述べた場合と似ているようで、全く異なります。向こうでは自殺することの是非で問題となりましたが、こちらでは死自体について議論するからです。つまり、自殺は当人視点での評価で良いですが、一般的な死は俯瞰視点で評価するのが妥当ということです。
さて、これは多くの場合で間違いないことです。しかし同時に、死自体の悪さを指摘できるものではありません。
分かりやすくするため、例示することとします。あなたの友人が誰も知らない秘匿された地で過ごすことを選択し、あなたとは二度と会えない形で離別する場合を考えてください。この場合、今生の別れという文脈では死と全く同じです。しかし、その人が旅立ちの手始めに乗った乗り物の事故で即死した場合、あなたはそうでなかった場合よりもはるかに悪い思いをすることは明らかでしょう。これは、死が残される(=永遠に離別させられた)人だけでなく、死ぬ人にとって何か悪いことがあるという発想に根付くことを示唆します。つまり、この理由は、悪い理由の補助的なものとしては考えられますが、本質ではないはずです。
生きていたら出来たはずの良いことが出来なくなるから
哲学の言葉で「剝奪説」なんて名前があったりします。これはかなり有力な根拠ですが、例えば破滅的な飢餓や絶望に陥っている等、生きているうちに悪いことも経験することを勘案に入れなければなりません。重要な考え方ですので、すぐのちに詳しく触れます。
存在しなくなることが良いこととは言えないから
これはたまに耳にしますが、二つの意味でよく分かりません。一つは存在することに「良さ」があるように語っている点です。僕の立場としては、存在すること自体はニュートラルで、それを取り巻く環境によって良し悪しが定まるように思っていますが、皆さんはどう思われますか。
もう一つは、存在しない人に対して良し悪しは定義されないと思うからです。存在しないというのは文字通り何も無いのであって、当人にとっての良し悪しなど考えようがありません。
他にもあると思いますが、自殺について論じる際にポイントとなるアイデアを紹介したので先に進みます。すなわち、二つ目の考え方です。
自殺が正当化されうる最大のポイントはここで、これから先の将来、生きていて悪いことの方が良いことよりも総和が多い(と、半ば確信的に見込まれる)場合は死が悪いことではなくなります。もちろん、そのような状況下ではまともに思考することは困難で、下した評価を信用すべきでないという指摘は考えられます。一方で、極限の状況下で合理的な判断を下すことは不可能であるという主張も誤りです。例えば、薬を飲めば解消するひどい頭痛に悩まされている時、薬を飲むことは(朦朧とする意識の中で導いた結論であるから)合理的判断でないと言えるでしょうか。これは極端な例ですが、あり得るという話です。誤りがちである状況だからこそ、何度も再考し、可能であれば(感情論を連呼するタイプでない)他者の意見も評価に入れたうえで、慎重に判断を下すべきですし、そうして得た結論であれば止められないと僕は思っています。
生自体は有価値であり、補正を入れるべきだとか、未来は予想がつかない形で変わるから、「良いこと」が「悪いこと」を上回りうる希望を捨てる自殺が良いことはあり得ないとか、意見はあると思います(当然様々な本で論じられています。)しかし、ここまで考えたうえで出す反自殺の意見と、思考停止で「自殺は良くない!」と言うのとでは、その価値はまるで違うものになっていると思います。
まとめ
ここまで読んでくれてありがとうございます。
「自殺」について、「死」について、この文章は、きちんと考えるきっかけになれたでしょうか。
冒頭で、僕は自殺したいと思ったことがあると書きました。漠然とした死にて~な~とかではなく、本気で自殺を考えていました。その時に僕のとった方法は、自殺について、死について、徹底的に考え抜くことでした。哲学は本当に難しいもので、僕は哲学から目を背けて理系に来てしまった人間ですが、思考している間は希死念慮から逃れられていました。そして、自分なりに死についての確固たる考え方を持てるようになった時、あれだけ強かった自殺への思いは氷解していました。
思うに、自殺に悩むひとたちは、「死」を思考も及ばない何か崇高で重大なものであると捉えているんだと思います。崇高で重大なものであることは間違いないのですが、思考の対象におけるものですし、おいていいのです。当然容易に思考できることではありません。適宜、一切何を言ってるか分からない哲学書を読まなくてはなりませんし、他人との議論も必要となるでしょう。しかし、そうして「死」を自分なりに消化し、何か身近に思えれば、だいぶ悩みはすっきりしているはずです。
僕はこうして得た感覚として、「自殺をふんわり選択肢として受け止めよう」なんて表現することがあります。誤解を招きやすく、早急な表現の改善が要請されています。「こいつは自殺しろって言ってるのか」なんてよく言われます。「医系学生がこんな態度なのは嘆かわしい」的なことも最近言われました。しかし、この文章がその真意です。
この文章を読んでくれた皆さんが、ふんわり自殺を受け止めてくださることを祈って結びといたします。
長文でしたが、読んでくれてありがとうございました。