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ムーン 我が家の庭にいた猫の話

庭には二羽ニワトリがいる。
じゃなくて、我が家の庭には、いつも三匹の猫がいた。毛が長くて白茶黒のミックスカラー猫と、黒猫と、足元だけ白い黒猫。
私たちがロンドンのこの家に暮らしはじめた頃から、というか、私たちが住む以前から、彼らはこの庭を縄張りとしていたようだった。いつもうちの庭の日当たりのよい場所か、物置の上で、三者三様にひなたぼっこをしていた。私たちは彼らを庭から追い出したりせず、かと言って、エサを与えて手懐けることもしなかった。彼らの方も、私たちが庭に出ると、めんどくさそうに逃げはするものの、私たちのことを警戒するという様子もなかった。
お互いに積極的に関わり合うことはなく、‟ただ、そこにいる存在”として共存してきた。

私たちはある時、彼らに名前を付けた。ミックスカラー猫は「ムーン」、黒猫は「クロ」、足元の白い猫は「ソックス」と名付けた。
「名前を付ける」という行為によって、私たちにとって、彼らはただの野良猫以上の存在になった。家族や友達、というほどではないけれど、全くの他人でもない。たとえて言うならば、同じクラスにいるけれど、ほとんど話したことのないクラスメイト、とでもいうのだろうか。同じ教室にいて、顔も名前も認知している。空いている座席を見れば、その人が欠席していることがわかる。その人に特別な関心を寄せているわけではないけれど、毎日当たり前に同じ空間を共有している存在。

そんな彼らがより身近な存在になったのは、隣人との出会いだった。一年半ほど前に起きたある出来事をきっかけに、私は我が家の隣にあるアパートに住むおばあちゃんメアリーと知り合いになり、仲良くなった(メアリーとの交流については、過去にいくつか書いている)。
初めて彼女の部屋を訪れたとき、キッチンの窓から外を指差しながら「あなたの家の庭に、いつも猫がいるでしょう。あの子たちは親子なのよ。フサフサの毛の猫が母親で、黒猫たちはそのこどもなの。私が飼っているわけではないんだけれど、エサをやったり、あそこに寝床も作っているの」と教えてくれた。窓の外、アパートの庭には、毛布が敷かれた小屋が置いてあった。
我が家の庭でいつもまどろんでいた彼らは、どうやら完全なる野良猫ではなく、半野良だったようだ。
メアリーによると黒猫たちは約5年前に生まれたらしい。彼女は、母猫(ムーン)に「マミーキャット」、黒猫(クロ)に「ボビーキャット」、足元だけ白い黒猫(ソックス)に「ガーリーキャット」と名付けていた。なるほど、クロはオスで、ムーンとソックスはメスなのかと、その日に初めて知ることができた。
三匹の猫は、メアリーのアパートから我が家の庭へやって来る際、塀を飛び越えて来ることもあるけれど、多くの場合、塀の下の穴を通り抜けてやって来ていた。メアリーによると、その穴を掘ったのはキツネらしいが、猫たちにとっても快適な通路となっていたのだろう。
私たちの前にこの家に住んでいた人たちは、猫(もしくはキツネ)が庭にやって来ることを良しとせず、その穴を埋めてふさいでしまっていたらしい。しかし、私たちが住み始めた後に、キツネがまた穴を掘ったのだろう、とメアリーは言っていた。そして「あなたたちがここに住んでくれて良かったわ。アパートの庭よりあなたたちの家の庭の方が日当たりが良いから、彼らはあそこが好きなのよ」とも話してくれた。
メアリーからその話を聞いて以来、三匹の猫たちは私たちにとって、さらに身近な存在となった。相変わらず積極的に関わることはしなかったけれど、彼らが我が家の庭からメアリーのアパートの庭へ戻っていく姿を見ると、公園から家に帰る近所のこどもを見送っているような気分になった。

去年の夏、ロンドンにしては暑い日が何日か続いたある日、メアリーが我が家を訪ねてきた。
「昨日の朝からマミーキャットの姿が見えないの。あなたの庭にいないかしら?」と不安げな顔をしていた。私は彼女を家に招き入れ、庭へと案内した。「ここ数日、急に熱くなったから具合でも悪くなったのかもしれない。マミーキャットはもう結構な年だと思うのよ。人間なら私と同じくらいかも」と言うメアリーを「きっとうちの庭にいますよ」となだめながら一緒に庭へ出た。
すぐ目に付く場所にはマミーキャットの姿はなかった。しかし、ガーリーキャットが庭の端の方にいるのが見えた。「ガーリーキャットがいるなら、マミーもきっといるはずだわ。あの子はマミーの近くにいることが多いから」というメアリーの言葉通り、ガーリーキャットのさらに奥の方に、マミーの姿が見えた。マミーキャットを見つけた瞬間、メアリーの顔がほころんだ。「あぁ、よかったわ。マミー、やっぱりここにいたのね。お腹すいてるでしょう。今日はちゃんとごはん食べに戻ってくるのよ」と声をかけてから私を振り返り、「ありがとう、しょうこ。あなたが隣人でよかったわ。私たちはここに15年以上住んでいて、あなたの今住んでいる家に今まで何家族かが入れ替わって住んでいたのを知っているけれど、こうして付き合いがあるのはあなたたち家族が初めてだもの。あなたと良き隣人になれたから、こうして庭を見せてもらえるわけだし。いつもあの子(猫)たちを見守っていてくれてありがとう」と言ってメアリーはアパートへと帰っていった。

私たちとメアリーは、たまにお互いの家を行き来してお茶をしたり、クリスマスや誕生日にはカードやプレゼントを贈り合う仲になっていた。会うときにはいつも、家族の話をするように、猫たちの話もした。私たちとメアリーの会話には、三匹の猫たちの話題が欠かせないものになっていた。

十日ほど前、うちの中庭にいつも以上にハエがたくさん飛んでいた。なんだろうとうよく見てみると、コンクリートの上に黒いシミのような丸いものがいくつかあった。どうやら、動物のフンのようだ。固形ではなく、下痢のような状態のフンだった。ハエがたかっているのが嫌なので私は外に出て、水でそのフンを洗い流した。しかし、翌日もまた同じ場所に同じ黒いシミがあり、ハエがたかっていたので、やはり私はまたそれを洗い流した。そんなことが四日続いた。
うちの中庭でフンをするとしたら、恐らくムーン(マミーキャット)だろうと私は思っていた。裏庭(メインの庭)には三匹ともよくいるけれど、中庭での遭遇率が一番高いのはムーンだったからだ。ムーンが下痢をして体調を崩しているのであれば、メアリーに伝えた方がいいかもしれない、と私は思った。しかし五日目には下痢らしきものはなくなったので、もう大丈夫なのかと思い、メアリーを心配させてもいけないし、と思って、結局私は何も報告しなかった。

しかし昨日、息子を迎えに行こうと家を出たとき、ちょうど私を訪ねてメアリーの息子のマークがうちにやって来た。どうしたのかと尋ねると、「マミーキャットの姿が見えないんだ。数日前からごはんを食べなくなっていて、水しか飲んでいない。今朝、ふらふらした足取りでしょうこの家の方に穴をくぐっていく姿を見たから、そっちにいるんじゃないかと思うんだけど、確認してくれないか?」とのことだった。私は息子を迎えに行って戻ったらすぐに確認する、とマークに伝え、マークはメアリーと一緒にまた10分後に戻ってくる、と言って一旦別れた。
私は急いで学校から戻り、庭を見てみたが、すぐ見える範囲にはマミーの姿はなかった。我が家の庭からメアリーの家のキッチンが見える。そちらを見ると、メアリーが不安げな表情で外を眺めているのが見えた。私が手を振ると彼女はそれに気づき、「今からそちらに行くわ」と言って、すぐにマークと一緒に我が家へやって来た。
「マミーはもうかなりのおばあちゃんなのよ。だから食べなくなったということはもうその時が近いのかもしれない。今朝はおぼつかない足取りだったから心配で」とメアリーは言った。彼らを連れて庭に出たが、やはりマミーの姿はなかった。庭の奥はうっそうと木が生い茂っている場所があり、その辺りも見てみたけれど見当たらなかった。その茂っているあたりを見ながらメアリーが「いい場所ね。マミーキャットは落ち着ける静かな場所を求めてここへ来たのかしら。でも、もし彼女にその時が来たなら、私はうちのアパートの庭にちゃんと埋葬してあげたいのよ」と言っていた。
結局、マミーは見つからなかった。私はメアリーに「もし見つけたらすぐに連絡します」と伝え、メアリーは「そうしてくれると嬉しいわ。ありがとう」と言って帰っていった。

私はその後もマミーキャットのことが気になって仕方がなかった。もし、我が家の庭で最期を迎えたのならば、そのままにしておいたらキツネに食べられてしまったり、腐敗してしまったりしたら可哀そうだと思い、もう一度庭に出て探してみた。うっそうと茂っている辺りももう一度よく見てみたが、やはり見当たらなかった。

今朝も、起きてすぐに庭を見てみたが、やはりマミーの姿は見えなかった。我が家の台所の娘がいつも座る席から、メアリーの家のキッチンが見える。朝食の時、娘が「メアリーが今キッチンから外見てるよ。目元が疲れている雰囲気だし、キョロキョロしてるから、まだ見つかってないんじゃないかな」と言った。私も同じようにメアリーのキッチンを見たけれど、その時彼女は私には気がつかなかった。

その後、私は用事があって出かけた。昼に帰宅したものの、すぐに来客予定があり、庭を探す時間はなかった。来客中に、庭にガーリーキャットがいるのが見えた。彼女がそこにいるということは、やはりマミーはこの庭にいるのだろうか、と気になりつつも、探しに行く時間はなかった。
来客が帰り、息子を学校に迎えに行って家に戻ったとき、一件のメールが届いていることに気がついた。メアリーからのメールだった。タイトルは「Mummy cat」となっていた。急いでメールを開いてみると「昨日はありがとう。今朝、こちらの庭でマミーキャットを見つけました。彼女は痛みもなく安らかに眠っています。私たちはいつまでも彼女を忘れません。ありがとう」と書かれていた。メールの受信時間を確認してみたら、朝の8:30だった。
朝からずっとバタバタしていてメールを確認していなかった自分を悔やんだ。すぐに近所のスーパーへ行って、花を買い、息子と一緒にメアリーを訪ねた。

私がメールの確認が遅れ、訪ねるのが遅くなってしまったことを詫びるとメアリーは「来てくれてありがとう、しょうこ。マミーキャットはもう天国にいるわ」と抱きしめてくれた。メアリーの娘のジュディも来ていた。
「マミーにお花を買ってきました。日本では、お墓には菊の花を供えるのが習わしなんです。それにほら、Chrysanthemum(菊の英語名)はmumと名前がつくでしょう。彼女はマミー(mummy)キャットだから、このお花にしました」と伝えると、「まぁ、ありがとう。マミーも喜ぶわ。庭に埋葬したから、そこにお花を供えてあげてくれる?」と言って、マミーのお墓を作った場所へ連れて行ってくれた。そこは、いつも彼女がうちの庭へとやってくる通り穴の少し左手だった。月桂樹の植木鉢と、小さな花が咲いている長靴型の小さな植木鉢が二つ、置かれていた。「キツネが掘り返すといけないから、少し深めに穴を掘って、その上に植木鉢を置いたのよ。しばらくして落ち着いたら、植木鉢はよけてなにか目印になるものを置くつもり」とメアリーが教えてくれた。
私は息子と一緒に、その植木鉢の手前に花を手向け、手を合わせた。途端に、涙が溢れてきた。自分の飼い猫でもないし、餌付けをしていたわけでもない。ただいつも、我が家の庭でまどろんでいたマミー、ムーン。当たり前にいつもそこにいた彼女は今、この土の下で眠っている。もうその姿を見ることはない。そう思うと、寂しくて仕方がなかった。彼女は我が家の庭の風景の一部だった。我が家の風景の一部、というのは、ある意味では、我が家の一部、我が家の一員でもあったのだということに、その瞬間に私は気づかされた。「マミー。ムーン。いつもうちの庭に来てくれてありがとう。あなたがうちの庭にいるのが当たり前だったのに、庭でまどろんでいるあなたの姿を見るのが好きだったのに、もう二度とあなたを見ることがないなんて信じられない。あなたは私にたくさんの喜びを与えてくれたのに、私はなにもしてあげなくてごめんね」と伝えた。

メアリーに、マミーをどこで見つけたのかと尋ねると、「今朝、うちの庭の花壇の横にいたわ。両手を重ねて横になって眠っているようだったから、きっと、大きな痛みや苦しみを感じながらというよりも、安らかに旅立てたんだと思うわ最期にちゃんとうちの庭に帰ってきてくれてよかったわ」と教えてくれた。

‟猫は自分の死期を悟ると飼い主の前から姿を消す”という話を聞いたことがあった。だから私は、マミーは死期を悟って姿を隠してしまったのかと思っていた。しかし、マミーは結局、最期はメアリーのところに戻ってきた。そのことが、私は本当に嬉しかった。猫全般の習性がどうであれ、マミーキャットはちゃんとメアリーのもとに帰って最期を迎えた。そのことで、メアリーはマミーキャットの死を真正面から受け止め、そしてちゃんと埋葬してやることができた。そのことは、メアリーにとって大きな救いであったと思う。そして、私にとっても。

帰り際、「マミーは本当に愛らしい美しい猫だった。死んでしまったことは悲しいけれど、いつまでも彼女のことを忘れないわ。わざわざ来てくれて本当にありがとう」とメアリーが言ったので、「もちろん、私も忘れません」と答えた。そして、ハグをして別れた。

メアリーと別れた後、「マミーキャット、ムーンが死んでしまったタイミングが、私たちがこの家に住んでいる今この時でよかった」と私は思った。ものすごくエゴイスティックな考えだとは思う。でも、メアリーは以前、15年以上ここに住んでいるけれど、隣人付き合いがある家族は我が家だけだと言っていた。つまり、マミーキャットが死んでしまったという悲しみを共有できる人は、これまでの隣人の中にはいなかったということだ。付き合いのある私たちだからこそ、一緒にマミーキャットの行方を捜し、心配して心を寄せ合い、死を悲しみ、共に弔うことができたのだと思う。

悲しみという感情は、喜びの感情以上に、共有する人を求めるものなのではないかと思う。同じ悲しみ、喪失感を味わっている人がいる、ということが、悲しみを癒すための、ひとつの救いになりうる。そして、悲しみを昇華させた後は、一緒にその思い出を振り返ることができる。そういう相手がいるということは、幸せなことなのではないかと、私は思う。

今、ひとつ、大きな後悔がある。それはムーンの写真を撮っていなかったということ。
飼っているペットであれば、日常的に写真を撮っていただろう。けれど、ムーンたちはあくまでうちの猫ではなかった。いつも庭にはいるけれど、すぐ近くまで寄ってくることも、こちらから寄っていくこともなかった。
彼らを庭の一部、風景の一部のようなものとして捉えていたので、あえて彼らを写真に収めるということをしていなかった。
今はまだ、はっきりとムーンの姿を思い出すことができるけれど、いつの日か思い出せなくなってしまうかもしれない。
なんで写真を撮らなかったんだろう、と今になって悔いている。

ムーン、マミーキャット、どうか安らかに。
最後にメアリーのもとに戻ってきてくれて、本当にありがとう。
また、私たちの庭に遊びに来てね。