計画性のない私の柔軟性
ひとつ前の投稿で「noteを書き始めると、最初に考えていた方向から、いつの間にか全然違う方向へと進んでしまう」と書いた。そう、私には計画性がない。それだけでなく、たとえ計画があったとしても、いとも簡単にその計画を反故にして、別のことをしてしまうところがある。常に計画的でいたい夫は、私のそういうところがたまらなく嫌なようですが。それはさておき、その計画のなさを、行き当たりばったりと捉えるか、柔軟性があると捉えるか。時と場合によるが、今日は「柔軟性がある」と捉えて話を進めたい。
数日前から、"かぼちゃの鶏そぼろあんかけ"を食べたいと思っていた。かぼちゃは既に購入していたので、今日は鶏ミンチを買おうとスーパーへ行った。しかし、イギリスでは鶏ミンチはあまりポピュラーな食材ではなく、たまに売っているのを見かけるスーパーもあるが、大抵のスーパーには売られていない。今日訪れたスーパーにも、やはり売られていなかった。それでも、今の私はどうしても鶏そぼろあんかけを食べたい気分だったので、自分でミンチにしてでも作ってやる!と意気込んで、鶏ムネ肉を買って帰った。
まずはかぼちゃを切り、鍋に入れて塩と水を少しだけふり、蓋を閉めて火にかけた。蒸し焼きにするのだ。次に、米を研ぎ、サラダ用の人参を千切りにしてから、ムネ肉をミンチにする作業に入った。まずはムネ肉を1センチ角程度に細かく切ってから包丁でたたいてミンチにしようと思っていた。1センチ角に切ったところで、先に火にかけていたかぼちゃの様子を見ると、良い具合に柔らかくなっていたので、1つ食べてみた。そのかぼちゃが、驚くほどに甘かった。大げさでなく、本当に今まで食べたかぼちゃの中で1番美味しいんじゃないかと思うほどの甘みだった。火の通り加減も文句なし。そこで、1つの考えが浮かんできてしまった。このかぼちゃをあんかけにしてしまうと、かぼちゃ本来のこの美味しさを消してしまうのではないか。いや、間違いなく消してしまう。もちろん、あんかけはあんかけで美味しいだろうけれど、このかぼちゃはシンプルにかぼちゃだけで味わわなければいけない、そうでなければ、このかぼちゃに申し訳ない。
そう感じながら、かぼちゃの甘みを存分に堪能していた私。ふと手元に目を落とすと、既に小さく角切りにされたムネ肉たちが申し訳なさそうに身を寄せあっていた。そうだった。鶏そぼろを作るためのミンチにしようとしていたんだった。あんなに食べたいと思っていた鶏そぼろあんかけなのに、もはやもうそんな気持ちを感じていたのはひと月も前のことのように思えるほどだ。さて、この角切りにしてしまったムネ肉をどうしよう。1分前までは、かぼちゃに申し訳なさを感じていた私は、今度は所在なさげなムネ肉たちに申し訳なさを感じていた。このまま無碍にするわけにはいかない。でももうそぼろにするわけにもいかない。どうしよう。冷蔵庫の中に青じそがあることを思い出した。極小角切りムネ肉と青じその組合わせ。その組み合わせで、ある友人の顔が浮かんできた。まだ奈良にいた頃、友人の新居にて3家族で持ち寄り夕食会をした。そのホストであった彼女が作ってくれた一品が、鶏肉と青じそのゴロゴロ焼きだった。美味しかった記憶と楽しかった記憶がぶわっと蘇り、よし、予定変更してあれを作ろう!と決めた。
そして、夕飯の食卓には、かぼちゃの蒸し焼きと鶏肉と青じそのゴロゴロ焼きが並んだ。あ、人参サラダも。こどもたちも、「このかぼちゃ、砂糖入れたの?めちゃくちゃ甘くて美味しい!」かぼちゃの甘みに感激していた。そしてゴロゴロ焼きを食べて娘は「こんなの今まで作ったことないよね?」と言いながら「でも、なんか食べたことあるような気もする」と言っていた。私が、「〇〇ちゃんの家に行った時にママが作ってくれたやつを真似して作ってみた」と言うと、「あぁ!確かにあの時食べたわ!帰りにお父さんが酔っ払ってコケたときやろ!」と応えた。そうだった。ゴロゴロ焼きをご馳走になったあの日、ベロベロに飲んだ夫は帰り道でズッコケて、肋骨をやってしまったのであった。こどもたちは、そのことまで思い出してしまった。食べることが好きなわが子たちは、食べものと紐付いた様々なことを覚えている。大人にとっては覚えていてくれなくてもよいことまで覚えている。「せやな〜そんなこともあったなぁ」と、みんなで楽しく飲んだあの日を思い出し、笑いながら食べたゴロゴロ焼きは、とても美味しかった。
かぼちゃの鶏そぼろあんかけを作るつもりが、予想外のかぼちゃの美味しさにより、メニュー変更となり、その変更が、楽しかった思い出を蘇らせた。私が"かぼちゃの鶏そぼろあんかけを作る"という当初の計画を重視していたら、こどもたちがシンプルなかぼちゃの甘みに感動することもなかったし、ゴロゴロ焼きを食べて楽しかった奈良の思い出を思い返すこともなかった。私がかぼちゃを一切れ食べて美味しさに感動したことを重視し、計画にこだわらずレシピ変更したことで生まれた夕食時の楽しさは、私の柔軟性がもたらしたものなのだ。
夫よ、私の急な予定変更も、そう捉えれば好きになれるんじゃないですか?