見出し画像

元ヒヨッコ秘書の常務回想録

「父が亡くなりました」
とインスタで繋がっている知人から連絡があった。友人ではなく、知人と書いたのは、友人と呼べるほどの親しい関係ではない、というよりも、私と彼女の関係性が、少し特殊なものだからだ。

亡くなった方、彼女のお父さんというのは、私が社会人2年目のときに、秘書を担当させていただいた会社役員(常務)の方だった(以後、その方の仮名を中田常務とする)。
そしてそのお嬢様であるAさんは、私と同い年で、彼女もまた、同じ会社に勤務していた。と言っても、私は大阪勤務、彼女は東京勤務だったし、仕事上での接点はなかった。

けれど、もちろん私は中田常務のご令嬢が社内にいらしていることは把握していたし、Aさんは父である常務から、担当秘書(私)のことをなんとなく聞いていたそうだ。だから、特に接点や直接のやりとりはなくとも、お互いの存在は認知していた。

ある時、私の東京出張で、Aさんが勤務しているビルを訪問する機会があった。その時、初めてお会いし、少しだけ挨拶を交わした。
どんなことを話したのかも覚えていないけれど、「いつもお世話になっています」「いえいえ、こちらこそ」という当たり障りのないのないものであったと思う。
会話の中身は覚えていないけれど、笑った顔が常務によく似ているな、と思ったことだけは、今もはっきりと覚えている。

その後、Aさんと何度かメールでのやりとりをしたような記憶はあるが、直接お会いすることはなかったように思う。そしていつの間にか、彼女も私も、その会社を退職していた。

Aさんと私は、その程度の関係性だったのだけれど、SNSが私たちの関係に少しだけ変化をもたらした。
ある時、Facebookを流し見ていたら、「知り合いかも?」にAさんが上がってきた。そして、Aさんが私のいとこと繋がっていることに気がついた。
どうやら私のいとことAさんは、高校の同級生だったようだ。そんなことで、再びAさんとゆるく繋がった。

そして今はFacebookではなく、Instagramで繋がっている。お互い、割と頻繁にストーリーズに投稿するなので、互いの投稿に反応し合ったり、その流れでゆるくメッセージのやりとりをしたりしていた。
私も彼女も、場所は違えど、現在、お互いに海外駐在生活をしているということで、何かと共感し合うことが多いのだ。

SNSを介することで、Aさんと私の距離は少し近づいたけれど、友人と呼ぶやはり少し遠慮があった。
そこにはやはり、担当していた常務の娘さん、という初めの出会いが影響していたのかもしれない。

そして先月、久しぶりにAさんが私に送ってくれたメッセージが、冒頭の「父が亡くなりました」というものだった。
訃報を聞いて、私はただ単純に驚いた。もう15年ほどお会いしていないし、全く交流もなかったけれど、なんとなく、きっとお元気でいらっしゃるものだろうと思っていた。
しかし、実際には10年前くらいから病気を患っておられ、長く闘病生活をされていたとのことだった。

何年もお目にかかっていないし、亡くなったと聞いても、ピンとこないというのが、驚きの次に、私が感じたことだった。
なんというか、常務は飄々とした掴みどころのない方でもあったので、そのままの調子で、いつまでもいらっしゃるものだと、どこかで思っていたのだが、命が有限であることは、当たり前のことだ。例外なんてないのである。

訃報とともに、Aさんが「父は単身赴任が長かったので、一般的な家庭の父娘と比べると、一緒に過ごした時間はそう多くはなかった。だから、生前の父のエピソードがあれば、なんでもいいから聞かせてほしい。それを聞いて、私は亡き父に思いを馳せたい」と、気持ちを吐露してくださった。
そのメッセージを読んだ際、私の記憶に眠っていた常務の数々のエピソードが、鮮やかに蘇ってきた。
Aさんがお父様に思いを馳せるきっかけになるのならばと思い、中田常務とのエピソードを、ここに書き記しておこうと思う。

常務から頼まれた最初の仕事

入社2年目、まだまだひよっこ社員だった私は、中田常務の秘書を担当することになった。
正直なところ、「え、あの常務ちょっと怖そうなんですけど…大丈夫かな…」と感じていた。

秘書を担当するまでは、ほとんど面識はなかったものの、たまに私の上司(相川部長、仮名)の席に電話をかけてくる際、自分の名を名乗ることもなく、「相川おるか」とだけぶっきらぼうに問いかけ、席を外していると答えると「そうか」とすぐに電話を切ってしまう人だった。
入社2年目で、社会の道理をまだわかっていない私には、ただただ、感じの悪い人、という印象だった。

そんな常務からの初仕事依頼は、「君と同い年の娘が、今年から社会人になったので、健保の扶養から外す手続きをしてほしい」というものだった。
そう、その時に私は、常務のお子さんが、私と同い年の娘さんだということを知ったのだった。
「はい、わかりました」と答えたものの、同時に申し付かった別の業務に先に取り掛かった私は、扶養から外す手続きのことを、すっかり失念してしまったのだった。
数日後に「あれ(扶養手続き)どうなっとるんや?」と聞かれて、「あ!すみません!すっっっかり忘れていました」と冷や汗をかいたのであった。
しかし、常務はそれを叱るでもなく、「しっかり頼むで」と言われただけだった。

その他の仕事においても、私が多少のミスをしても、それを叱ったり咎めたりすることは、ほとんどなかったように思う。
今振り返ると、それは、私が娘さんと同い年であり、どこかでわが子を見守っているような思いがあったのではないか、などど勝手に想像している。

常務に怒られた、唯一の出来事

怒られたことはほとんどない、と書いたけれど、一度だけ、かなり厳しく注意された記憶がある。
それは、常務から、「印鑑証明書を郵送してほしい」と頼まれた際のことだった。

当時勤めていた会社は、それなりに規模の大きな会社だったので、社内に「メール室」という場所があった。そこは宅配業者が常駐していたり、社内外の郵便物を取りまとめて配送してくれる場所だった。
社外へ発送する郵便物も、メール室に持っていけばそこで手続きをしてもらえるので、私はその時も、常務に頼まれた印鑑証明書の入った封筒をメール室に持っていき、担当の人に「お願いします」と手渡した。

次の日、常務から「昨日の書類の受領書をちょうだい」と言われた。「メール室の人にお渡ししたんですけど…受領書あるか確認してみます」と私が答えると、「なんで自分で郵便局まで持って行ってないんだ。ああいう大事な書類(印鑑証明書)は、必ず自分で窓口に持って行って、受領書をもらうもんだ」と怒られてしまった。

当時の私は、まだ世間知らずすぎて(今もだけれど)、印鑑証明書がどういうものなのか、どれほど重要な書類なのかを理解していなかった。
常務からの指示も、「(君が)自分で郵便局へ持って行って」というものでもなかった。だから、いつも通り、他の書類と同じように、メール室の人に郵便局に持って行ってもらえばいい、と考えていたのだった。

結局、メール室経由で確認してもらい、受領書は無事に入手できた(と記憶している)のだけれど、常務からは、「今後は必ず自分で窓口へ持っていって手続きするように」と厳しくご指導をいただいた。

その件以外でも、注意されたことはあったかもしれないけれど、私の中では、それが常務に叱られた唯一の記憶として残っている。

今となって思えば、常務は、生え抜きの社員ではなく、元々は銀行出身の方だっので、金銭に関わるような重要書類の扱いについては、人一倍厳しかったのかもしれない。

常務、突然いなくなる

秘書たるもの、勤務時間内の上司の行動は、常に把握しておかねばならない、はずである。

しかし、中田常務は、スケジュールが数時間開いていると、ふらっと役員室からいなくなってしまうことが、しばしばあった。
なので、そういうときは注意して常務の動向を見守り、役員室から出て行こうとする姿を見かけると、「どちらへ行かれますか?」と声をかけなくてはいけない。「便所や」と答えられた時には、「あ、失礼しました」と申し訳ない気持ちになったけれど…。

ある日、こちらが気づかぬうちに、常務が役員室から姿を消していた。しまった、どこに行かれたのだろう、と私は焦り始めた。こういう時に限って、別の役員の方(特に、常務よりも目上の方)から電話がかかってきたりするのである。そういうときは、「〇〇さまとの面会中ですが、〇〇時には戻ります」ときちっと予定を答えなくてはならなかった。なのに、常務が何時に戻るのか、どこへ行ったのかもわからない。どうしよう。と私はソワソワしっぱなしであった。

30分後、常務が何食わぬ顔で部屋に戻ってこられた。私はほっと胸をなでおろすばかりだった。自分の席から常務をちらっと盗み見ると、なんだかすっきりした表情をされている。なんなら鼻歌も聞こえてくるのでは、と耳を澄ませた(結局、何も聞こえなかったのだけれど)。よく見ると、表情がすっきりしているのではなく、髪の毛が短くなって、さっぱりしていたのだった。

空白の30分間のうちに、どうやら理髪店へ行かれていたようだった。こういうとき、ご本人に「どちらに散髪に行かれたのですか?」と尋問するわけにはいかない。
なので私は、前の部署で常務の秘書を担当されていた方に電話をかけ、事の顛末を話し、常務が通っている理髪店に心当たりがないかと尋ねてみた。すると彼女は笑いながら、「そうなんですよ。たまに急にいなくなって、さっぱりして戻ってこられるんですよね~」と言っていた。そうして、常務行きつけの理髪店(会社から歩いてすぐの場所にあった)の情報を教えてもらったのだった。

それ以後、常務の髪の毛が伸びてこられた頃合いに、ふらっといなくなられた際には、「あ、きっと理髪店へ行かれたのだな」と、私は察しをつけられるようになったのである。

逆立ちするハンコ、消えるハンコ

令和の今は、決裁書もオンラインで回付され、捺印もワンクリックで完了する時代になっているらしい(私は令和になってから会社勤めをしていないので、使ったことはないけれど)。

しかし、私が入社した頃は、まだまだ紙の決裁書を手持ちで回付し、各部署のお偉いさん方のハンコを集めて回っていた時代だった。
常務のところにも、毎日大量の決裁書が回付されてきて、それにハンコを押してもらい、次の部署へと運ぶのも、私の役目であった。

ある日、常務の捺印が終わった決裁書を次の部署へと持っていこうとした際、私は何かの違和感に気がついた。なんだろう、と決裁書をよく見てみると「中田」と押してあるはずの欄に「田中」と押してあるではないか。

中田常務が、田中常務に入れ替わったのではなく、ハンコを上下さかさまに、逆立ちして押されていたのである。
「中」も「田」も左右対称の漢字なので、そのまま回付しても問題なさそうにも思えたのだが、さすがにそういうわけにはいかない。私は起案部署および関連部門にお詫びの連絡を入れ、再度、決裁書を上申し直してもらった。

またあるとき、クリアファイルに入れた状態で、常務に回付した決裁書があった。常務の捺印(逆立ちしていないかどうかも)を確認すると、ちゃんと押してあった。書類の重なりを整えようとクリアファイルから決裁書を取り出すと、さきほど確認したはずのハンコが消えていた。
あれ?と思いクリアファイルを見ると、クリアファイルに朱色の「中田」の文字がはっきりと見えた。今度は、逆立ちはしなかったけれど、なんとクリアファイルの上からハンコを押されたようだった。
ということは…書類をファイルから取り出して中身をちゃんと読んでいないのでは、という疑惑が持ち上がったけれど、そこは追及しなかった。

常務ほどの知識と経験をお持ちであれば、どの書類がきっちり目を通すべきもので、どれが形式上だけのハンコを押せばよいものなのか、きっとご自身の中で判断されているのだろう、と思うことにした。 きっと、そうに違いない。

「俺は、持ってる」

当時、年初めや、本部長の交代毎に、基本方針徹底会なるものがあった。

常務が私たちの本部の本部長に就任された際だったか、その後の年始だったか、はっきりとは覚えていないが、どちらかの徹底会における際の常務のご発言で、私がはっきりと覚えていることがある。

「俺は、“持ってる”。運がいいから、俺についてくれば大丈夫」という発言をなされたことがあった。なんて大胆なことを言う人なんだろう、と思ったけれど、その後の常務を見ていると、あれは嘘やはったりではなかった、と感じるようになった。なにが、という明確な理由があるわけではないが、確かに、この人にはなにかあるかも、と思わせるようなオーラが、中田常務にはあったのだった。

会社員時代、私は通算5人の方の秘書業務を担当させていただいた。みなさんそれぞれに個性的で優秀な方だった。その中でも、中田常務の個性は際立っていたと感じている。
生え抜きではなく、他業界からのキャリア組だったということも、その理由のひとつであったと思う。けれど、それだけでなく、中田常務ご自身の持つ資質というか、人を惹きつけるオーラのある方だった。
人の上に立つ方には、はっきりと理由はわからないけれど魅力的、というようなタイプの人がいいのだろうな、と当時まだ20代の私なりに感じるものがあった。

常務から秘書への接待

最近がどうかは知らないが、私が中田常務の秘書をしていた頃は、まだ接待の習慣があった。
私が勤めていたのは大阪市内の企業だったため、取引先企業の方との会食の場は、主に大阪キタの繁華街、北新地だった。
常務には、馴染みの割烹料理屋が数軒あったのだけれど、そのうちの一つのお店に、私も連れて行っていただいたことがある。もちろん、取引先企業との接待の場としてではない。

ある日、中田常務から「いつも使っているのがどんな店なのか、知っておいた方がいいだろうから、一緒に行こう」とのお声がけがあり、私、先輩(女性)、部長の3人を、割烹料理屋に連れて行ってくださった。
はっきりとご自分からはそうおっしゃらなかったけれど、常務から部下たちへの、日頃の業務に対する労いのお気持ちからのことだろうと、拝察した。そのお気遣いが、とても嬉しかった。

その割烹料理屋は、20代前半の小娘が、自分で行けるような場所ではもちろんなかったので、緊張よりもワクワクしたことを覚えている。
当時、私は勤務中に制服を着用していたこともあり(死ぬほどダサい制服だった)、会社への通勤着はジーパンにスニーカーというラフな格好が多かった。
しかし、さすがに常務行きつけの割烹料理屋に行くのに、そんな格好で行くわけにはいかない。その日に何を着たかは覚えていないけれど、少なくとも、ジーパンとスニーカーではなかったと、思う。

初めて訪れた高級割烹料亭は、普段、同期と飲みに行くそこらのチェーン居酒屋とは違い、どこからも酔っ払いのやかましい声が聞こえず、他の客とすれ違って顔を合わせることもなかった。静かで、落ち着いた場所だった。
女将をはじめとした店員さんの対応も、ひとつひとつが丁寧で、細やかだった。
提供されるお料理の味はもちろん言うまでもなく、季節感を取り入れた盛り付け、器の選び方など、細部まで気遣いが感じられるものだった。
とか言いながら、何を食べたのかは、実ははっきりと覚えていない。じゅんさいと、締めに稲庭うどんを食べたような記憶があるが、定かではない。
私はお料理もお酒も常務との会話も、全て楽しんだのだが、部長だけはさほど楽しんでいなかったように感じたのは、やはり部長ならでは、男上司と部下ならではの関係性によるものだったのだろうか。いや、私がただただ、頭の中お花畑だっただけなんだろうな。

とにかく、こういう世界もあるんだな、と世間知らずの小娘だった私は、オトナの世界に、ほんの少しだけ、足を踏み入れることができたような気がした。
その経験にすっかり気を良くした私は、その後、さらに中田常務が大好きになったのだった。常務から秘書への接待、大成功である。チョロいな、あの頃の私。

「社内結婚で大丈夫か?」

中田常務の秘書を担当させていただいたのは、たったの1年間だけだったけれど、秘書担当から外れた後も、時折社内でお目にかかると「おう、元気か」と言って、飄々と気さくに接してくださった。

担当から外れて1年ほど経った頃、私は同じ会社の同期であった夫と結婚することになった。一応、常務にもお伝えしておこうと思い、報告に伺うと「うちの社員でいいのか?大丈夫か?」と冗談めかして心配してくださった。私は笑って「大丈夫だと信じます」と答えた。

そして、結婚祝いだ、と言って、私と夫、私のメンターであった先輩女性社員の4人で食事に連れて行ってくださった。夫はそのとき初めて常務に会い、緊張しっぱなしの様子だった。
その場でごちそうしてくださっただけでなく、ご祝儀もくださった。渡してくださる際「内祝いは不要だから。俺はそういう習慣が嫌いなんだ。もらえるものは素直に受け取っておけばいい」と言ってくださった。私たちは素直にそのお言葉に甘えさせてもらった。

そのエピソードを思い出したのは、常務がお亡くなりになったというご連絡を、娘のAさんからもらい、2人で常務の思い出をメッセージでやりとりしているときだった。

Aさんが、「父から、しょうこさんがご結婚することは聞いていて、そのときに『社内結婚で大丈夫か』と声をかけたと言っていました。父なりに心配していたんだと思います」というエピソードを教えてくださったのだ。

あの時、冗談めかして私に「大丈夫か?」と声をかけてくださった裏には、自分の娘と同い年の元秘書の将来のことを、本気で案じてくださっていたのかもしれない、と常務の親心のような優しさを感じた。

思い返せばきりがないほど、常務とのエピソードはたくさんある。ここには書けないようなできごとも、たくさんある。
けれど、そのどれもが、思い返せばクスッと笑えるようなものばかりだ。どこを切り取っても、人間味があり、ユーモアのある方だった。
私は、そんな中田常務が、大好きだった。

人が亡くなることは、もちろん悲しいことだ。
けれど、それをきっかけにして、その人を思い出したり、懐かしいエピソードを語り合ったりすることもある。
自分の知らなかった故人の一面を、亡くなってから初めて知ることもある。

そして、そうやって故人の思い出を語り合うことによって、その人を亡くした寂しさや悲しさを、少しずつ和らげることが、できることもある。

この私の常務回想録が、お嬢様であるAさんにとって、そのきっかけになればいいなと思うし、いつか、中田常務の思い出を肴に、Aさんと直接飲みかわせたらと、願っている。

中田常務、大変お世話になり、本当にありがとうございました。
まだまだ若造でヒヨッコだった私を、いつも温かく見守ってくださったこと、改めて感謝しております。
あのとき、ご心配くださった同期社員との結婚生活は、今でも続いておりますし、夫は今も、あの会社に勤続して頑張って働いてくれておりますので、ご安心くださいませ。

どうぞ安らかに、お眠りください。