私のフルート人生(7)
音楽からの逃亡
帰国早々、疲労のあまり、ふくらはぎを肉離れしてしまいました。しかも悪くこじらせてしまい、松葉づえ生活が思いのほか長引いて、唯一の取り柄であった「体力」に不安を覚えるようになります。
この頃から私は、段々と自暴自棄になってしまいます。いつまでもスネをかじっているので両親には「早くフルートなんかやめて就職せよ」と言われていました。一応、色々と職探しもしてみるのですが、自分の経歴では普通の就職はまず無理であることは明らか(当時)。それに、もう「経験無し」が通用する年齢ではありません。大学院まで卒業して何の役にも立たない学歴なんて、今まで一体何をしてたんだろう、自分なんて「社会のクズ」だ、と思っていました。
そしてやっと見つけたのが週3日以上勤務の夜のみ、という条件で働ける派遣社員の仕事でした。フルタイムの人に比べるとタダの様な給料でしたが、アルバイトよりはマシだったのです。こうしてアテにならないフルートの仕事の合間にOLとしてパソコンの前に座る生活がスタートしました。この職場も数年後には時勢の波に飲まれ、解散してしまうのですが。
ところでこのころ、学生時代の友人と結成した「フルート・アンサンブル」の活動がありました。この頃はたまに仕事で集まる程度で、私は全く乗り気ではありませんでした。というのも、私は痛いほど周りに気を使ってアンサンブルすることを覚えてきたのに、この連中の演奏ときたら本当にのびのびしすぎて、ほとほと呆れる程だったのです。やる気があるんだか無いんだか、ライブを企画してもお客が「2人」なんていう状態。これでは、時給いくらで働いてる身分としては、とてもやってられませんでした。
それがある時、ふと思いついたのです。実家暮らしで貯めたなけなしの留学資金を、思いきってこの活動に投資してみようかと。「音楽をやってられるのもこれで最後」という気持ちでした。
このころはまだ、フルート・アンサンブルの楽譜も数が限られており、一般聴衆が相手の気軽なイベント演奏でも、親しみやすい曲を選ぶことができず、お客様に辛辣な意見を頂くこともありました。
また当時参考音源がなく、買ってみて音を出してみるまで何も分からない時代でしたので、ゴミのような楽譜を高い値段で買って、憤懣やるかたない思いをすることもたびたびでした。
そこで、覚えたての楽譜作成ソフトで、使いやすく、演奏しやすく、聴いて楽しめる編曲作品を作りました。はじめは自分たちが使うために、そして仲間たちみんなが困っているのではと思い、ワンシーズンレパートリーに困らないで済むように、まとまった作品を制作しました。
もう誰の評価も期待してはいません。今まで自分を苦しめた「より良い音楽」「レベルの高い演奏」とかは放り出してしまい、半ばヤケっぱちで「楽しけりゃいいじゃん」「ウケたが勝ち」という様な考えでした。
こうしてできた最初のアルバムと楽譜を出版し、販売促進ライブを十数回ほど開催した所、アルバムはあっという間に売り切れてしまいました。「もう最後」にするはずが、引っ込みがつかなくなってしまったので、すぐに次のアルバムを企画したのです。
思えば、昔から物を作るのが好きだった私。独奏よりも合奏を愛してきた私。編曲の勉強をしたことはありませんでしたが、落書き気分でいじっていると、不思議と自然に出来上がっていくのです。私は初めて「これが自分の仕事なのかな」と、妙に納得していました。
◆気づいたこと「失敗も挫折も、全部必要な経験だった。」
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