生涯現役(歳をとっても動けるコツ)
スポーツだけでなく、武術や護身術の中にも、年齢を重ねて体力が落ちていく事を想定していないものがある。
戦うにしても逃げるにしても、日々訓練を重ねている人には可能だろうが、普通の人が50歳を越えてそうそうできるものではない。いかに「現役」を継続するかについて考えてみる。
登り坂と下り坂
落語の枕で聞いた話だが、人間にはその年齢なりの「役まわり」がある。
・産まれて周囲を明るく照らす「赤ん坊」の役
・元気に遊び、学び、未来へのチカラを蓄える「子供」の役
・バリバリと働き、社会を形作っていく「青年」の役
・若者に知識や経験やチャンスを与え、歴史を重ねていく「成年・壮年」の役
・死にざまを見せることで生きる事の価値や自然の偉大さを伝える「老人」の役
その歳に合わせて適切な役を演じることが円滑に社会を動かすことになると東洋思想では考えられている。壮年になっても過度な筋トレを続ければ結局はカラダを痛めるし、老人になっても利益を貪り続けるようでは世の中は滑らかに回らない。
役者が若作りせずに年齢に応じた役をこなすほうが魅力的に見えるように、我々も年相応の行動をとるほうがパフォーマンスを発揮できる。クルマのギアを変えずにエンジンをフル回転させて酷使するよりも、適度にギアチェンジしてエンジンを温存しながらスピードを上げていくのに似ている。
人間は動物なので、青年期を過ぎると頭とカラダは劣化を始める。体力は弱くなり、判断力も鈍くなってくる。
それと相反するようにカラダに刻み込まれた技や芸、そして心の豊かさと精神の強さは年々成長させることができる。
日本文化には古来から「心をチカラに変えていく」方法が存在している。一般に「作法」と呼ばれるものだ。
こういう話をすると「それは指導者が精神論として言っているだけのもの」と思うかもしれないが、実際に「作法」にはチカラを発揮する合理的な仕組みが内包されている。それを体得しようと考えながら稽古した人でないと体感的に理解できないかもしれない。
スポーツのトレーニングには衰えを遅らせる策や技はあるのだが、心の豊かさをチカラに変えていく方策は残念ながら見当たらない。
では歳をとればとるほど能力を発揮できる「作法」とは何なのか。
私も修行中なので正確なことは言えないが「こんな事なのでは?」という話ならできる。
ブレーキを取り去る
カラダの動きには肉体的、精神的にブレーキが掛かる。
・学校教育で擦り込まれた「筋肉を使ってカラダを動かす」クセ
・武術稽古で身につけてしまった「攻撃に対してカラダを固めて守る」クセ
・自分が自分以外の物体を動かしている、という思い込み ….. などなど
これらのブレーキ(クセや思い込み)を取り去ることで発揮できるチカラがある。
「火事場の馬鹿力」というのがそれで「命を守るため」という強烈な本能がブレーキを取り去った結果、発生するチカラだ。これを意図的に使えるようにする。
ブレーキを掛けている正体は前頭葉だと言われている。人間として学んだ様々な経験や反応や道徳観など、周りで何かが起こると無意識に反応してしまう「後天的に刷り込まれたクセ」が「動物の本能」の働きを邪魔して自由に動けなくなってしまう。この後天的反応を抑制して動物の本能で動くことができれば、素早く力強く本来の動きが発揮できる。その体系的な訓練方法が古流武術にはある。
山歩きや滝行など、アジア文化の修行には人間社会から隔離された稽古法がある。これらは「後天的クセ」から精神を解き放つためであり「禅」もその1つ。
テコを使う
技とは自分の持つチカラを数倍に発揮するため(あるいは相手のチカラを弱くするため)のテコだ。カラダの構造を利用したテコ、相手との相対関係を利用したテコ、技の動きによって発生するテコ。合気術では「自分の重心を下げることで相対的に相手を持ち上げる」という方法があり、これもテコの一種。
芸事では道具(武術では武器)を使って自分の能力を倍加することもできる。これも一種のテコと呼んで良いだろう。その際に「自分が道具を使っている」と考えるのではなく「自分は道具の一部になっている」と思い込むことで道具の能力を発揮する。例えば「自分の腕力で日本刀を振り回す」のではなく「日本刀の重心位置を替えずに人間がその周りを移動する」ことで刀を素早く切り回すことが可能になる。
同じ考え方で書道の筆を自分のカラダの一部と考えれば、指先で書くのではなく「丹田で字を書く」というイメージになってくる。自分が何かを制御して動かすという意識を捨てて、道具や相手と一体となってダンスするイメージに近い。
人間の法則を使う
武術や芸事には相手が存在する。そこには人間同士ならではの機微がある。
生理的な部分では接触点の触感や経絡やツボ、そこに発生する生理反射や本能があるだろうし、さらに精神的な部分では表情や雰囲気、言葉などによる相互作用が発生し「言霊」と呼んだりする。
接触した部位にチカラを入れたり、相手を睨みつけたり、大声を上げたりして相手に脅威を感じさせれば、相手はそれに備えて強くなろうとする。その固くなったところを狙う方法もある。逆に相手に脅威を感じさせないように対応すれば、相手はそれ以上に何かしようとは思わなくなる。そのスキを付く。これらは合気柔術の技に繋がっていく。
相手の経験を逆利用するのも武術の常套手段だ。
現代柔道では相手を投げる際に、相手がこちらのカラダを掴んで耐えようとしたら、相手のチカラ以上のチカラを入れて投げる。掴まれた部位を取り合うわけだ。
古流柔術では相手を投げる際に、相手がこちらのカラダを掴んで耐えようとしたら、掴まれた部分のチカラを抜いて相手の支えを無くしてしまうことによって相手が勝手に倒れてしまう。掴まれた部位を相手に与えてしまうわけだ。
このように人間ならではの反応を利用して技に強力なテコを仕掛ける。
年齢を重ねるごとに強くなる名人は、こういうところが巧みなのだ。相手に体力やスピードを出させる前に勝ってしまう。
このような人間の反応の逆を狙った技に「酔拳」がある。次はこう来るだろうという想定反応を相手から引き出し、それを裏切って相手を崩していく。
自然の法則に従う
いままで大自然に勝った人間はいない。つまり人間よりも大自然のほうが強い。
そうであれば「大自然の法則で動けば勝てるんじゃないか」。私だけでなく大昔から多くの人がそう思ったようで、中国拳法にも自然や動物を模倣した拳法が多い。アジアの宗教家や道を求める人達も大自然の中に何かを見つけようとしてきた。
大自然の法則に従うことは、これまでに述べた「ブレーキ、テコ、人間の法則」を全て含んでいる。それらは太極拳、合気柔術、ヨガ、禅あるいはフラダンス、琉球舞踊のような形で自然と一体化して伝えられている。形だけ学んで終わるのではなく大自然を意識しながらこれらを修行することは、人間の能力を開発して発揮する、老化を越えた方法なのではないだろうか。
大自然の法則は「氣」と表現することもでき、そこに合わせることを「合氣」と呼んでいる人もいるようだ。
これらを巧みに取り込んで構築された先人の智恵が「作法」だと思う。
「精神的に強くなれば、相手に撃ち負けない」という根性論レベルの話ではなく、精神的に成長すること自体が技を高めることに直結していて、技術論と精神論は分かれていない。前述した柔道の投げの例で言えば「相手と取り合う」のではなく「相手に与える」ことで相手が自滅してくれる。「我を捨てる」ことで勝ちが転がり込んでくるわけだ。そのために稽古と並行して禅で諸法無我を学ぶ。
道具や相手を自分の都合で動かそうとするのではなく、道具や相手を尊重して「一緒に動こう」と気持ちを合わせることで相手が動いてくれる。その心持ちが、人間の都合ではなく大自然の流れに合わせる心を育てることに繋がる。
八百万の神がいる日本には、このように古来から大自然に学び「心をチカラに変えていく」作法が存在している。
作法や礼儀が大切にされるのは精神論ではなく、歳を重ねても劣化しない動きを作るための智恵なのだ。
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