スマホで写真を撮り続ける理由
身近な風景の写真をスマホで撮りだしたのは、ここ1年半ほど。
それ以前は特に写真に興味があったわけでもなく、何かを「記録するため」だけに、スマホのカメラ機能を使っていたような気がする。
自分のことを写真で撮られることも苦手だったから、積極的に写真を撮ることもなく、写真のフォルダはいつもスカスカだった。
・・・だけどある時、写真で自分のことを「表現する」という感覚を覚えてから、その魅力にハマっていったんよね。
そして、僕が写真を撮る際に決めている原則は
・スマホで撮ること
・自分の心が動いたものを撮ること
この2つだ。
■言葉だけじゃ伝わらないことがある
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写真にハマる以前の僕は、言葉の力を信じていた。
・・・いや、今でも強く信じている。
そして、信じているからこそ、その言葉を誰かへ注いだ時に、その人のことを信じられなくなることもあった。
僕らが誰かのことを信じられなくなる時というのは、自分の言葉が相手に伝わっている実感を得られなくなった時だと思う。
こちらが真剣な態度を示しているのに、話を聴こうとせず、正面から向き合おうとせず、心を通わせようとしなければ、信じる気持ちも失せるだろう。
その際僕らは、伝えたいことが伝わらないもどかしさから、「相手の汲み取り方が悪い」と判断してしまいがちだ。
特に、その人との付き合いが長かったり、出会ったばかりでよく知らなかったり…
はたまた、自分の方が年上だったり、立場的に上に立ちやすく、傲りやすい環境においてその傾向は高まる。
だからこそ、自分が伝えたいことを、目の前の相手にとって伝わりやすい表現に編集したり、何度も伝え直すという努力を忘れてしまうことも多いんよね。
・・・ちなみに僕は昔から、頭の中で突拍子もないことを考えたり、空想を描いたり、皆が考えそうもしないことをあえて考える、ということが好きだった。
けれど、それをどれだけ思い描いたところで、周りに伝わらなければ『意味合い』が生まれない。
たとえ自分にとって意味があっても、誰かにとっても意味のあるものにならなければ、その意味が重なることはないから。
それで自分だけが気持ちよくなってることを気持ちわるく感じて、『伝え方』を学び出したんよ。
Twitterには140字という文字数の制限があるから、「自分が伝えたいことをいかに短く伝えるか?」という練習がしやすいと思い、ここ2〜3年発信を続けてきたんよね。
そうした挑戦を続ける中で「言葉だけじゃ限界があるなぁ」と感じ、写真という『ビジュアル表現』に自身の感情の移ろいをのせて伝えようと考えて、今に至る。
・・・伝えたいことが『伝わる』ためには、言葉を届けて、音(声)を送って、漂う雰囲気を嗅ぎ取ってもらい、醸し出す空気を味わってもらい、相手の心や肌に触れることが大切だからだ。
もしも言葉だけで伝わったのなら、相手の汲み取り方が素敵だった…というだけ。
それはそれで、有り難い。
一方で、言葉だけで伝わらない時には、『五感』で何度も伝え直すという、謙虚な姿勢も忘れたくない。
■制約から生まれる表現
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写真を撮ることにハマってから、カメラを買うことも考えた。
けれど、まだ写真のことを何も知らない自分がカメラを手にとる前に、今持っているスマホのカメラ機能でやれることは山ほどあるんじゃないか?とも思ったんよね。
さらに、カメラを買うとなれば高いし、どんどん新しいレンズを欲しくなって欲に歯止めがきかなくなるかもしれないという、自制心も働いていた。
カッコつけた表現だけど、単純にお金に余裕がなかった。
皆がインスタにあげているような、パキッとした写真と同じものを撮りたくないという自己主張もあったり、プロのカメラマンだから撮れるものではなく、自分だから撮れるものを撮りたいというおもいがあった。
・・・そうやって、スマホだけで撮り続けて気づいたことがある。
それは、「天候(光の量)と時間帯」を気にかければ、自分らしくぬったりとした写真を撮れるということだ。
今のスマホは、本当にスゴい。
例えば「満月」みたいに望遠レンズが必要なものはスマホだと画素が粗くなってしまうけれど、その一方で、光が醸し出す空気を捉えて「現場の空気感」を写すには、十分すぎる性能を備えているんよ。
日常に木漏れる温かさや、1日の終わり頃にしっとりと醸される雰囲気。
こういった「空気を切り取ること」は、スマホのカメラで表現できる。
・・・これは、スマホで撮るという制約があったからこそ涌き出た表現だと思う。
■【さいごに】日常の大切さ
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僕が写真を撮る際に大切にしていることは、温かな空気感を伝えること。
もっと言うと、『日常の大切さ』を伝えることだ。
僕らが生活していく上で、心が曇る日もあれば、心に雨が降って灯が消えかける日もあるだろう。
日常の忙しさに流されてしまいそうになると、灰色の1日の中で、ほんの一瞬だけ綺麗な夕日が上っていたという事象に、気づけないことも多い。
・・・今の僕らは、空を見上げる機会が極端に少ないんだ。
足下に冷たく広がる水溜まりばかりを眺めている。
その水溜まりだって、同じ目線に立って空を見上げれば世界は美しいのに、ついつい僕らは見下してしまう。
淡々と仕事をこなす日常があったとして、仕事が休みになれば、楽しい楽しい非日常がやってくる。
そうした非日常を求めるのは心地よいけれど、それで日常をなぁなぁにして、流されてしまったら、日常は苦痛でしかなくなってしまう。
「休みになったら何をしようかなぁ」とふんわりしているだけでは、仕事のやりがいや、昨日の自分より少しでも強くなるといった、普段の努力を見過ごしてしまうから。
非日常があるから日常を頑張れるのは間違いないけれど、その希望は、僕らが日常を疎かにしていい理由にはならない。
日常を大切にしているからこそ、光輝く非日常がやってくることを望むだけでなく、自ら手繰り寄せることができるはずだと、そう信じたいんだ。
・・・僕が日々写真を撮るのは、日常の中で心が踊る瞬間を、自ら創ることを大切にしたいから。
心に火を灯したいからだ。
「この景色と出逢えてハッピーだなぁ」という瞬間は、日常にいくらでも隠れている。
日常にふいに訪れる変化や、自身の感情の移ろいを見逃さず、ハッピーな瞬間を探し出す旅を、これからも続けていきたいと思う。
・・・読んで頂きありがとうございました(*^^*)
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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者の思想を深堀りするエッセイです。
※毎週日曜日の夜に更新!
新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています!
ゆらりときらめく水鏡のように
他者の魅力を鮮やかに彩る存在でありたい
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