一首評 ときどきどこかへとてつもなく帰りたい眼科検査の気球への道/飯田有子
ときどきどこかへとてつもなく帰りたい眼科検査の気球への道/飯田有子『林檎貫通式』
「眼科検査の気球への道」、眼科で白い紙の上に顎を置いて機械の中を片目で覗き込んだときに見えた、気球の浮かんだ景色。
初めてこの歌を読んだとき、私はこの景色が持つノスタルジーがすんなりと理解できた。すとん、と「帰りたい」に対して共感した。
「とてつもなく帰りたい」「どこか」は、故郷といった生半可なものではないだろう。言うなれば、生の起源のようなものだと思う。
ノスタルジーというのは、眼科検査の思い出という意味ではない。景色そのものに対して感じたことなのだ。
眼科検査は一瞬だからあの景色の記憶は曖昧だ。検索すると、広大な草原の真ん中を突っ切るように太い道路が走っていて、それが気球へと繋がっている画像が出てきた。確か、「気球を見ていてください」と眼科では言われるから、道路の方をじっくり見るのは新鮮な気がする。
何故この景色が懐かしく感じるのだろう。この道路が延々と続いているように思われるからだろうか。道路はところどころ勾配があって、気球はすぐそばにあるような感じではない。むしろ、進んでも進んでも辿り着かなそうな遠近感だ。その極限をとったかのように気球がある。
気球はどこかへ旅立つための乗り物だ。しかし、この景色のゴールは、またこの歌における帰りつく場所は、「気球」そのものであり、そこからどこかへまた向かうというのが全く想定されないのが面白いなと思った。どこへでも行ける「気球」が、それに乗り込むところが生のスタートなのかもしれない。
韻律についても触れると、上の句は特徴的な音数になっている。三分割するなら、ときどきどこかへ/とてつもなく/帰りたい、と私は読んだ。ときどき/どこかへ、と切れてもいいぐらいだ。このぐいぐい引き込まれるようなリズムが、読者を還るべき景色へと誘うのだろう。