10日目、旧かながめっちゃよかった
第2回万葉の郷とっとりけん全国高校生短歌大会に出ました。
例のごとく大会の中で好きだった歌を紹介したいと思います。今年は全部大会がオンラインなので好きな歌に好きって言うことがその場で出来ないのです。もどかしさを全部ここにぶつけてるような感じです。
準決勝以降の短歌は手元になくて、勝ち上がった高校の歌を雑にメモったもの(はるさんが)(しかも途中から試合に集中しててメモるの諦めてた)(わたしは最初から諦めてた)しかないので、大会の方から後日資料が届いたらちゃんと書きます。勝ち上がったところ以外の高校が事前に詠んだ準決勝、決勝の歌も載せてくれるそうで、はちゃめちゃに楽しみにしてます。
この記事では準々決勝で好きだった歌のうちのいくつかについて書きます。入選作品のうちの好きな歌については11日目で書いてますので、そちらも良かったら読んでください……!(なお、まだ書いてはいない)
好きだった歌のいくつか、と言いましたが好きだったチームについて、になりそうです。3首とも書きたくて……。そこまでは絞ったのですが……。
というわけで高田PLANTSに惜しくも負けてしまった星野高等学校Cの皆さんの短歌について語りたいと思います。(高田PLANTSの皆さんの歌もめちゃくちゃ良かったんですが、特に好きだったのが準決勝のやつなので、後日語ります!)
赤々とベテルギウスは光りたり消えかけてゐる私の心/小島 穂乃花
まずは先鋒の歌です。
ベテルギウスは今にも滅ぶと言われている星。私がこの歌でいちばん好きだと思ったポイントは、つきすぎていないというところだ。
短歌において具体的な景と心情の取り合わせはよく行われることだ。だが、しばしばそれは短歌のための景では?と思うような情景描写に巡り合い、不信感を覚えてしまうことがある。上手い下手はおいておいて、わたしは作者の意図が見えすぎてしまう景の描き方は好きではない。好みの問題ではあるが。
この歌も上の句の情景と下の句の心情の二つの部分に分けられるが、そのふたつが一直線に結びついているわけではない。単純な因果関係ではない。滅びかけているベテルギウスは、それでも今は赤々と光っているように見えている。私の心は消えかけているそうだが、「消えそう」というマイナスにも、「まだ消えていない」というプラスにも捉えられ、その二つが両立しているというのが真実なのだろう。人の心情は単純に表せるものではない。その複雑さをさらりと歌い上げたところが妙だ。
秋の夜の家出少女は街の灯にコスモスのごとふるへてゐたり/渡部 美咲
続いて中堅。
ものすごく上手い。秋の夜の家出少女というフレーズがまずキャッチーだ。コスモスのごと、という例えもすごく効いている。何も持たず家を飛び出した少女は、夕闇の中を漂う、街の異質。だがそれは、コンクリートを分けて咲いた一凛の花のような美しい異質さなのだ。街をゆく大人たちは、彼女のような無鉄砲な行動力は忘れてしまった。
だからこの場合のコスモスは花畑のコスモスというよりは一凛の孤独なコスモスのふるえなのだと思う。「街の灯に」という表現が秀逸だと穂村さんが言っていた。彼女は寒さにふるえるのではない。街の灯、場違いなおのれにふるえるのだ。だがそれは醜さではなく、美しさだ(二回目)。
ふるえそうな子音が多いと言うのもこの歌の特徴だ。というかそもそもコスモスという言葉の響きそのものが震えていて、いい。
君を待つ大宮駅のコンコース育ちゆきたる自転車の錆/大友 結
時間を拡大する歌の魅力に、初めて触れた。
八戸高校の山田さんのような一瞬を切り取る歌の魅力には何度も何度も触れてきたけど、この歌は一瞬をそのまま切り取っているわけではない。一瞬を持ってきて、その上でそれをぐいっと引き伸ばして永遠のように見せている。
そもそも題「育」から錆を持ってきたところがもう、すごい。嘘のようで嘘ではなくて、ちゃんと言ってることが成り立ってて、まるで手品を見ているかのようだ。
星野高校さんは旧かなを使ってて、それも歌の雰囲気に合ってるし、めちゃくちゃかっこよかった(例えば一首目だと"消えかけている"、二首目だと"ふるえる"の効果がより出る)。とてもいい指導者がいるんだろうな、羨ましいな……。我々の文芸部、指導者がいないので、よくも悪くも。
それでは11日目に続く!