推し歌人-青松輝さん
※この文章はヨミアウの企画に応募するために書かれたものであり、からすまぁの熱量のほんの一部である。
青松輝は本気だ。そして青松輝は必死だ。
必死なんて言うと、ネガキャンのように思われるかもしれない。いつからだろう、余裕のある態度が良く見られるようになったのは。インターネットの冷笑主義とまでは言わないにしても、「相手にするだけ無駄だ」というような、「関心がない」ということはより上位の存在の証だ、というような。そんな風潮をたまに感じる。少なくとも熱くなることを避けるような節はある。むきになることは、かっこ悪い、と。
でも人間って結局、自分の人生にたましいを燃やさざるをえないんじゃないの、と思う。皆強がってるだけだ。だから、不意に全力でぶつかってくるものに、きらめきを本能的に感じ取ってしまうのだ。
そんな必死さを隠さないのが、いや、隠しきれない必死さが漏れ出て読者のこころを掴むのが、青松さんの短歌だと思っている。
ときに、青松さんの短歌は意味が分からない、難しいと言われる。
だけど、意味なんて必要だろうか?
説明文のようにすべての言葉が繋がっている必要はない、短歌なのだから。青松さんの歌では、言葉はしばしば因果のなかに組み込まれているのではなく、「そこに置かれている」という役割を持つ。
そこにある、そしてそこにあるゆえに読者の口から滑り出る単語。それがシャンプーでありラズベリーでありレスキューなのだ。もちろん、無作為に置かれているわけではないだろう。すべての言葉が響き合って、詩になるのだから。
そして、そういった置かれている単語を背景にして見たとき、おのずから「必死さ」が立ち上がっては来やしないか。 単語と単語の純然たるぶつかり合い、そのはざまに、ふと、言葉がこちら側を向くのだ。分かりにくい、回りくどい歌などではなかった。
こんなに直球ではないか。