一首評 歯磨きの漱ぎの水に少しある苦みのような懐疑のような/鬼頭孝幸


歯磨きの漱ぎの水に少しある苦みのような懐疑のような/鬼頭孝幸
第三回超然文学賞優秀賞「米の花」


底知れない魔力を持っている歌だと思う。
この歌を読み進めていくと、四句までは「共感」だ。確かに歯磨き粉というのは独特な味で、飲んだことはないのに絶対に飲み込みたくないと感じる。食べ物の側では歯を磨きたくないと思う程だ。それが水と混ざって薄まったときの微妙さを、「少しある苦み」はよく表している。「歯磨きの漱ぎの水に」という説明も上手い。これだけで日常の細部の感覚を鋭敏に捉えた詩として成立しているから、読者は気を抜く。そしてそこに、唐突に「懐疑」が降ってくる。

「苦みのような」に対して共感している読者は、当然のように並列された「懐疑のような」にすぐには反応できない。「懐疑」は驚異だ。日常と哲学のぶつかり合いだ。けれども読者の頭は歯磨きの水の苦みへの共感でいっぱいで、確かにそこには懐疑もあるかもしれないな、とそのまま共感してしまうのだ。同じレベルに単語を並べることによって、「苦み」と「懐疑」が同じくらい存在する可能性があるように見えるのだ。

「少しある」「ような~ような」という言い方も巧妙で、断定していない。だから読者は存在しない共感を得る。「あったのかもしれない」と思う。「ふと」や「わずかに」「すこし」「そっと」などの言葉は、文字数を埋めるために容易く使ってしまいがちなので気をつけたほうがいいとよく言うが、この場合の「少しある」は読者を作者の世界へ引きずり込むためのキーワードであり、効いていると言えるだろう。

そもそも哲学的な言葉と短歌は相性がいいと思っている。ずるいのだ。短い単語ひとつひとつに数多の学者の意図、長い考察の歴史を含み、それだけで多くを語ってくれる。
もちろん、歯磨きのうがいというのはたいてい鏡の前でするから自分の姿が見え、自分の一日に対する内省があるという「懐疑」として共感のひとつと取ることもできるかもしれないが、私はこの「懐疑」の唐突さに引き込まれた。内省だけにとどまらない広い意味で味わいたい。

この歌は連作の冒頭の一首目である。「米の花」は生活の中に強さと鋭さがある連作なので、ぜひ読んでみて欲しい。




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