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光る犬と文旦

高知の友を訪ねて帰りがけに5、6個の文旦をもらった。
家の中にごろごろ置いてあったものを、てきとうにビニル袋に入れてくれたそれは明るい黄で、柑橘の清潔なにおいがする。
荷物の重さのおよそ半分は本で、残りの半分は文旦だった。
ひらくと隙間に詰めた文旦が光って見えた。

帰りの空港の搭乗口の前で荷物を開けたときに、そのうちの一つが転がってグレイのカーペットの上に落ちた。なんともそれは場違いでの明るさと清潔感と、意外性のある光景だった。

ぎゅっとしていて水分の少ないくだものが好きだ。
わたしの最も好きなくだものは柿で、それもぎりぎりまで水分のないこりこりと固いものがいい。わたしはその水分の様子を「限界水分値」と呼んでいて、その限界水分値ぎりぎりのものに出会うととてもうれしくなる。文旦も水分が少ないくだものだから好きだ。ひとふさの中のさらに先ほそりしている滴形のひとつぶにぎりぎりの水分が感じられると、いいなあと思う。思いながら食べる。

思えばぎりぎりのものがずっと好きなのだった。
ぎりぎりはくるしい。くるしいものはぼんやりしたものよりも認知をしやすい。はっきりとした知覚を与えるものは生きている強い実感が得られる。

短歌研究新人賞に応募した。
応募の封筒の宛先を書きながら、「短歌研究」という雑誌名は見慣れているから何も思わないけれどけっこう変わっているなと思う。「養豚研究」とか、「浄土真宗研究」とか「地下鉄研究」とか「足拭きマット研究」などの雑誌名を連想し、続いて「養豚研究新人賞」とか、「浄土真宗研究新人賞」とか「地下鉄研究新人賞」、「足拭きマット研究新人賞」とかまで考えてよくわからなくなる。

郵便局を出て歩く銀座通り商店街は建物がみな一様に低く、電線が空を何重にも這っている。電線を意識の中から一本一本消していき、続いて建物も消していく。そこまでできると北海道でも、イスタンブールでも、プラハでも、そして太古でも未来でもどこの空にもすることができる。わたしはそういう遊びをよくする。

「遊ぶ」という表現の意味が、いつだってあまり腑に落ちない。「友達と遊ぶ」とか「きのう遊びに行った」と子どもでなく大人がいうとき、その「遊ぶ」というのは具体的にどんな行為を指すのだろうか。わたしの遊びとは違うようだ。それは映画に行くことなのか、食事をすることなのか、遊園地へ行くことなのか、もしそうならそう言わないでわざわざ「遊ぶ」という理由はなんだろうか。

クラムチャウダーを作った。前の日に夫が作ったたらこパスタのソースがスープほども残っていた。
厚手の鍋に玉ねぎとじゃがいもを賽の目に切ったものをバターで炒め、そこにシーフードミックスを入れてさらに炒める。パスタソースを入れて塩と胡椒をたす。思ったよりおいしい。


鯛のグリルも作った。鯛に塩と胡椒をまぶしてグリルパンで焼くだけ。こつはなんといってもグリルパンをかんかんに熱することで、これを少し弱気に熱してしまうとおいしくないし、パンにくっついてしまう。思い切りは料理にけっこう大切な要素だ。
そのほかには買ってきたフランスパンを切る。長いままのパンに少し水を振りかけて、高温のオーブンで5分ほどパリッと焼く。それだけで格段においしくなる。

犬の散歩に行く。
道端に何かが背を丸めている。リスだった。リスは少し尻尾がそそけ立っていて、背を丸めて熱心に何か齧っている。塗り込めたような黒い目に、細い指先を揃えて食べ物を持っている様は貧乏くさく、こずるそうに見える。犬と脇を通った時も、リスは変わらず背を丸めて手に持ったものを齧り続けていた。

何匹かの犬とすれ違う。最近は赤や緑に光る首輪をつけている犬が多く、実用的なような、冗談のようなどちらにも見える。犬はそのピカピカ光る首輪に困惑しているのか、楽しんでいるのか、気づいていないのか、様子を見ているだけではわからない。わたしの連れている犬は光らない綱だけをつけて、光る犬に何かを思っている様子もない。

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