【小説】尻だけ出して、ののしってください
それはとても暑い日でね、と男は言って話し始めた。
私は小学校の四年生でした。その日は夏休みでプール登校の日でした。学校は家のすぐ裏にあって三分で着くんです。友達からはうらやましがられましてね。ただあまりに近すぎると、それはそれで問題もあるんです。遅刻をよくするようになりましてね。すぐに着くものだからぎりぎりまで寝るクセがついて。いまだに直らないんです。
その日もプールが始まる直前まで家にいたんです。まあ、マンガかテレビゲームでもしていたのでしょう。気がついたら開始時刻寸前になっていましてね。あわてて家を出てプールに向かったんですが、更衣室に入ると他の子たちはもう着替え終わっているんですよ。「遅えな」とか「また遅刻かよ」とかみんなから言われて。「殿様出勤だよ」とか私も言い返して。
それでね、見たらみんな手にプールカードを持っていましてねえ。「しまった!」と思ったんですよ。そのカードはプールに来たらハンコを押してもらう出欠簿なんですけど、持ってきてなかったんです。バックの中を確認しても、もちろんなくて。でもねえ、家で見た記憶もないんですよ。そのカードが終業式の日に配られたのは覚えているのですが……。
「ヤバイ、俺プールカードなくしちゃったよ」って友達に言ったら「教室に置き忘れてるんじゃね?」って言われましてね。そう言われるとそんな可能性もあるかなって思えてきたんです。「急いで見てきなよ」って友達に言われて行ってみることにしたんです。「先生に遅刻するって伝えておいてよ」なんて友達には言って。ええ、私の遅刻キャラはすっかり浸透してますから、笑って済ませられるだろうと思っていたんです。
それでみんながプールに向かうなか、一人で教室に向かったんです。誰もいない校舎の中に入ると、シーンとしていましてねえ。いつもは生徒たちでうるさい校舎が静まり返っているのが、妙にそわそわというか不思議な感じがしたのを覚えています。私も静かに歩いてみたりして。
私のクラスは一組で一番端だったんですね。プールは五組側にあったので五組、四組、三組と通り過ぎていくんです。窓は閉まっていたんですが、教室のドアは開け放しになっていました。たぶん換気のためでしょうね。それで通り過ぎていくときに、空っぽの教室を眺めて行ったんです。
ちょうど二組の前に来たときです。そこから一組の後方ドアが見えたんですが、教室に誰かがいるみたいなんですよ。というのも机の上にですね、プールバックが置かれているのが見えたんです。「あ、誰かいる」と思いましてねえ、とっさに忍び足になってそろりそろりと近づいて行ったんです。
すると一組の教室にね、一人の女の子がじっと立っているのが見えたんです。後ろ姿が見えましてね。それで妙なんですが、その子はじっと前を向いたまま、なぜかお尻を出していたんです。そう、お尻。黒板を見ながら、スカートをまくしあげて、パンツが膝まで下ろしてあって。白くて丸いお尻が見えたんです。私はびっくりしてすぐにドアのかげにしゃがんで隠れました。何が起きてるのか、軽いパニックになりましてね。しかもよく見たらその女の子は私のクラスメイトで、一番美人の子でね。勉強もできて学級委員も務めるほどの、まあアイドル的存在だったんです。その子が誰もいない教室で、なぜかお尻を出してじっと立っている。着替え中というわけじゃないんですよ。そもそも更衣室はプールの隣にちゃんとありますしね、男女別のが。
私はわけもわからず廊下で息をひそめていました。ものすごいドキドキしていたことはよく覚えています。クラスの憧れの女子ですよ。その子のお尻ですからね。
*
男はそこで珈琲を飲んだ。そして息を吐いた。
男の年齢は四十歳くらいだろうか。くたびれたグレーのスーツに白いオックスフォードシャツ。色あせたサックスブルーのネクタイを締めている。身長は170センチ程度。中肉中背。
わたしたちは五反田にある、昔ながらの喫茶店内にいる。店のBGMにはシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』が流れていた。
「尻に憑かれたおじさん、といったところでしょうか」と男は言った。
わたしはラテをふいた。店中の視線が集まった。GUで買ったお気に入りのスカートが台無しだった。
「それ以来、女の子のお尻に目がなくてですね」とそのおじさんは言った。「フェチって言うんですか。いや、そんな陳腐な言葉では表現したくないですね。これは一つの信仰に近いものなんです」
「信仰ですか」とわたしは言った。
「狂っていると思われるでしょうが」とおじさんは言ってかぶりを振った。「私はこの歳になっても、あの日見たお尻を夢に見ることがあります」
「尻に敷かれた人生」とわたしは言った。
おじさんは笑った。「話を戻しましょう」
*
どのくらいの時間息をひそめていたでしょうか。十分くらいのような気もしますが、実際は一分程だったのかもしれません。ほら、アインシュタインによる相対性理論のたとえ話ですよ。知っていますか? 熱いストーブに手をかざしていると一分は一時間のように感じられるが、可愛い女の子と一緒にいると一時間が一分のように過ぎてしまう、という話。同じことが起きたのでしょう。
「もうプールに行かなきゃ」と頭ではぼんやり思っていました。ですが体はその場にくぎ付けです。私はめまいのようにクラクラしていました。体の奥がじんじんして、自分が熱い吐息を吐いていたのを今でもはっきり覚えています。
そのとき、私は急に理解したのです。彼女がなぜ誰もいない教室でスカートをまくしあげ、パンツを下ろしているのか。彼女も感じていたんです。彼女も、私が感じているようなとろけるような熱いじんじんを、ああすることによって感じているんだということが、私にはわかったのです。
そして私は考えたのです。自分も彼女と同じようにしたら、もっとこの熱いじんじんを味わえるのではないかと。驚かれるでしょうが、私はなんのためらいもなくその場でズボンごとパンツを下ろしたのです。短パンのジーンズだったのを覚えています。もう理性的な思考は飛んでいました。それこそ憑かれたように、ただ欲望に突き動かされていたのです。
そしてそれは成功しました。人気のない校舎内でパンツを下ろしていると、今まで味わったことのないような陶酔感がやってきました。体の芯に電気が走り、目の奥が熱くなり、足がガクガクしました。自分が今危ないことをしているとわかっているのですが、もう止まりませんでした。何もかもどうでもいいという気持ちだったのです。
そのときです。急に足の付け根の奥にせつないような感覚が起こり、それがどんどん高まってきたかと思うと、次の瞬間はじけてしまいました。あっ、という声を上げて私はそのまま腰砕けになりました。何が起こったのか全く理解できませんでした。火照った頭にドクドクと血が流れて、ガンガンと音が鳴っていました。
朦朧とした意識の中で下半身を見ると、ぐっしょりと濡れていました。おしっこをもらしたのだと私は思いました。でもよく見たら太ももに、生卵についている白いひものようなものがついていました。私は驚き、あぜんとしてそれを見つめていました。衝撃でしたよ。何か一大事が起きているのだけれど、自分にはまったく理解することができない。
*
「カラザです」とわたしは言った。
おじさんは不思議そうな顔をしてわたしを見た。
「生卵についてる白いひもみたいなものの名前」
「なるほど」とおじさんは言った。「博識なんですね」
「一応理系なので」
「そうか。東大に行ってるんだものね」
「東洋大の方の東大ですけどね」
おじさんは笑みを浮かべた。「話を戻しましょう」
*
しばらく茫然としていましたが、ふと我に返って顔を上げると、目の前に彼女が立っていました。彼女はすでにパンツを履き、スカートを直していました。そして私の姿を食い入るように見つめていました。彼女の顔は火照っていて目がうるんでいました。「何してるの?」と彼女は私に言いました。何してるの。なんという質問でしょうか。「ナニしてるんだよ」と今の私なら答えられるのですが、そのときはまだ子供です。私は固まったままで返事をすることができませんでした。頭に血が上り真っ白になっていたんです。歯がガチガチ震えていたのを覚えています。
彼女はじーっとは私のことを見つめていました。くいいるように私の下腹部を見ているのです。でも、今でもはっきり覚えているのですが、私はそのときも――クラスのアイドルの子の前で、裸の下半身をさらしていたときも――すごく興奮していたのです。ずっとこのままでいたいと思っていました。神様にお願いしたいくらいでした。おかしいですよね? ええ、おかしいと思いますよ。でもそれがその時あったことの真実なんです。
でもやがて終わりが来ました。彼女は次第にほてりが収まってきたようで、どんどん素面に戻っていきました。とろんとした目がはっきりし、そうこうするうちに、その瞳に攻撃性のようなものさえ宿り始めました。侮蔑的なさげすみの色です。そして彼女はひとこと私に言いました。「へんたい」と。
彼女は走り去っていきました。とても悲しかったのを覚えています。行かないでと叫びたい気持ちすらありました。私は脱力し、しばらくそのままの格好で廊下にうずくまっていました。ですが頭が覚めてくると共に、今度は恐怖感が沸き起こってきました。取り返しのつかないことをしてしまったのだと理解したのです。こんなことをみんなに知られたらどうしよう、友だちや先生、親やクラスの女子に知られたら……
*
そこでおじさんは珈琲を飲んだ。そして「私の話はこれで終わりです」と言った。
「終わりなんですか?」とわたしは訊いた。
おじさんは肯いた。
「その後どうなったんです?」
「何もおこりませんでした」
「その女の子は誰にも言わなかったんですか?」
「言わなかったようです。もちろん、仲の良い友達には言ったのかもしれません。それでも一人か二人でしょう」
「その出来事について、その子としゃべったりはしなかったんですか?」
「なかったです。もともと私たちに接点はありませんでしたし」
「おじさんもしゃべらなかったんですが? その子のお尻を見たことを誰かに」
「ええ、もちろん」
「二人だけの秘密になったんですね」
おじさんは笑った。「そうです、秘密ですね。でもなんの使い道もない秘密です。彼女とはその後ほとんどしゃべった記憶はありません。何か事務的なことで接点があっても、その子はそっけない態度でした。やがて私たちは進級にともなうクラス替えで別々になり、さらに彼女は中学受験で私立の学校に行ってしまいました。それきりです」
わたしはラテを飲んだ。時間がたって苦くなっていた。
おじさんは腕時計を見た。「そろそろ行きましょうか」
おじさんが喫茶店の代金を払った。わたしたちは店を出て近くのラブホテルへ入った。
「心の原風景なんですよ」とおじさんはエレベーターのなかで言った。
「原風景」とわたしは言った。
「私はね、はっきり言ってあの時が最高だったんです。あの瞬間を超えるものは後の人生にはありませんでした。私はずっとあの時を再現しようとしているのです。でも無理なんです。どんなに工夫しても、あの時の感覚を完璧に再現することはできませんでした。子ども時代の鮮やかな感覚は二度と戻ってこないのです」
急にわたしはめまいを覚えて目を閉じた。脳裏には、子どものころの景色が浮かんでいた。青い空や白い雲、夏の暑さやプールの塩素の匂い。無邪気に生きていられた子どものころの鮮やかな思い出の数々。
「大丈夫?」とおじさんはわたしに尋ねた。
「弱いんですエレベーター」とわたしは言った。
部屋に入り、おじさんから前払いでお金を受け取った。約束していた金額よりいくぶんか多かった。
「学費、自分で稼がないといけないんだものね」とおじさんは言った。
「ありがとうございます」とわたしは言った。
おじさんはジャケットを脱ぎ、ベッドの上でズボンとパンツを下ろした。ワイシャツは着たまま、靴下もはいたまま。ペニスはすでに勃起していた。
「尻だけ出して、ののしって下さい」とおじさんは言った。「スカートをまくしあげ、パンツを膝までおろして。そしてそのままの格好で変態とののしってください。さげすむような目で私のことを見てほしいのです」
気がつくとわたしは再び目を閉じていた。そして心の中で祈っていた。「神さま」と。
神さま、どうかわたしを子供に戻してください。