毒親に捧げた四半世紀③
小学校低学年編
保育園を卒園し、小学校に入学した。
1年生の担任の先生はギターが得意で少し厳しい先生だった。
朝の会、帰りの会、音楽の授業はピアノではなく先生のギター伴奏に合わせて歌うというちょっと変わった楽しい記憶がある。
この頃までの私は非常に音痴だった為1人で歌うことは嫌いだったのに、先生の伴奏なら大きな声で歌えたんだよね。
幼稚園の頃から文字を書くことは出来るようになってたし、計算が得意だった私は授業も問題なく受けれたしテストはほぼ満点💯
私自身は苦痛に感じる事は無かったけれど、厳しい躾?を重んじる先生だったせいか他の子達は少し窮屈に感じていたらしい。
だから2年生での担任が優しいおばあちゃん先生になったことでタガが外れた私のクラスは軽く学級崩壊を起こした。
拳やモノを振り回して暴れながら怒る子、それに好戦的に挑んでいく子(私はここ)、授業中に脱走する子(これもやった)、一度泣きだしたら止まらない子、そんなカオスに怯える子、我関せずで本を読む子……まぁでもこれは4年生を終える頃までにゆっくり時間をかけて落ち着いて行ったかな。
父は私が入学と同時期に離島に転勤になり、単身赴任が始まった気がする。
記憶が曖昧だからハッキリは言えないけど、家に居る 一緒に過ごす という思い出がほとんど無いから相変わらず家に帰らない人だったね。
朝起きて、ご飯を食べて、歯磨きをして、顔を洗って、学校に行く。
学校では勉強をして、外で遊んで、終われば家に帰る。
家に着いたらおやつを食べて、スイミングに行き練習をして家に帰る。
そして夜ご飯を母と妹と3人で食べてお風呂に入って少し団欒して眠りにつく。
そんなルーティンの中に、月1~2程度の頻度でS(②の有料部分参照)が現れるようになった。
あろう事か、学校への送り迎えや学校行事の参観までしやがったせいで…Sが私の父だと認識している同級生が居るのも事実だ。
まぁ実父が学校行事に参加したのは私小学校の入学式と妹の中学最後の運動会のみだったと思うし、それ以外でSの姿を目撃する方がはるかに回数が多いから仕方ないとは思う。
ただ、父も母もSも同級生からそんな覚えられ方をされてることは知らないだろうな。
かなり田舎で少子化の進んだ地域だった為、
メンツはずっと一緒。
なんなら保育園の0歳から中3まで一緒の学校、1つのクラスで育つような地域。
共に歩み、共に荒れ、共に落ち着き、共に励んだ血の繋がってない一学年20人前後の家族という感じ。
だからこそ、全学年どの子を見ても顔見知りだしなんなら家族構成もほとんど知ってる。
そんな中だから、よく見かけるSは父だと認識されたんだろうね。
私はこの頃Sが家に来る事が、嫌でもあり待ち遠しくもあった。
少しずつ出来ることが増えた代わりに「言い付けた順番通りに事を運べない」私に対して腹を立てる母が理不尽に怒鳴ったり謝らせたりしてくる事が増えて来たから。
少し機嫌を損なうと怒られる。
でも当時の私はなぜ母が怒るのか分からない方が多かった、例えば母は「宿題→お風呂」の順番でやって欲しい 私は「お風呂→宿題」でやってしまう。
結果としてはちゃんと両方済ませられればOKなはずなのに「順番が違う」事に対して激昂する…
ということはよくあったが、直接「この順番でやってね」と指示を出された訳でもない低学年の子供がその意図を汲んで行動するのは難しいと思うよ。
こだわりの強い母と、終わり良ければ全て良しタイプの私は単純に相性が悪かったのだろうね。
でも当時の私はそれは分からず、ただただ不機嫌な母に怯える日々。
一方そんな母と私の姿を横で見ている妹は要領がいいもので、上手く回避が出来る子だった。
単純に「怒らせる方法」がそこにあるから逆をやればいいってのもあるんだろうけど……なんにせよ、私は怒られるのに妹は怒られない、これも苦痛だった。
そんな時、ふと現れるS。
Sが居る日は怒られない、だから縋ってしまうという構造が出来上がっていた。
好きな物を与えてくれ、母に怒られない時間を作ってくれるS。
けれど、1年生の半ば辺りからSは……
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