毒親に捧げた四半世紀①
誕生〜幼稚園編🐥
8月初旬、オリンピックの閉会式中に第1子長女として夕方頃産まれた。
その日の夜中に停電が起こって大変だったと聞いた事がある。
家族写真を見た記憶では両祖父母も私を満面の笑みで抱いていたり、父と母も幸せそうに私を抱いてた。
でもその産院での私を抱いた記念写真以降で両親揃った写真を見た事がない、離婚している訳では無いがほぼ破綻した夫婦関係。
私の誕生後から少しずつ円満だった歯車が狂って行ったんだろうな。
でも、この頃はごく普通のありふれた家庭だったと思う。
2歳頃までは母の実家(祖母家)に近い場所でアパート暮らしをしてたみたい。
妹が産まれたのはちょうど私が2歳半、その少し後に引っ越した。
母は当時専業主婦、父は陸自、父の社宅……いわゆる「官舎」に引っ越したんよ。
この頃からかな、私が自分の記憶として思い出があるのは。
朝目が覚めたら父は既に出勤済みで居なくて、母と妹と3人で過ごす。
私は特にアレルギー等はなかったんだけど、妹が食品系のアレルギーが酷く 更に軽い喘息持ち そしてアトピー…色々と気をつけて育てなければならないストレスは凄かったと思う。
それがキッカケだったのか、妹の体を強くする為にベビースイミングに通い始めた母と妹。
ついでに私もって感じだったのかな、物心ついた頃には泳いでたのが私。
妹は体が強くなったから良し。
反面、たまたまセンスが良かったのか私は幼児の中では成績が伸びる方で続ける理由になってしまった。
当時は泳ぐ事が楽しかったからこの時点では問題ないんだけど、これが後々私を苦しめる習い事になるんだよね。
4歳になった私は近くの幼稚園に通うことに。
一輪車にハマって乗れるようになったし楽しかった記憶がある。
登園して、降園して、スイミングに行って、帰宅してちょっと遊んで……
父の定時の時間が少し過ぎた頃、母は夕飯を作り終える、その後は私の仕事。
父の職場に電話をかけ
「○○父の娘です!内線〇〇〇番に繋いでください!」
とお願いすると父に繋いでもらえる。
「はーい」
「ご飯出来たよー!」
「帰るよ〜」
そして少し後に帰って来る父を3人で出迎えて、みんなでご飯を食べる、お風呂に一緒に入って少し遊んで歯磨きをして、寝かし付けてもらう。
そんな家庭だった。
ずっと続いて欲しかった。
この頃は幸せだったなと何度も思った。
文字を書くのが好きで練習してた私、左利き疑惑があった私を右に矯正しようと口うるさかった父。
母は特に矯正しようとはして来なかったし、自由にやらせてくれていた。
でも使いにくい右手が嫌い…隠れて反抗した結果、ほとんどの事は両手で出来るが歯磨きとお湯を汲むのは左でしか出来ない大人になった😂
休みの日は大きな車を父が運転して、母は助手席で、私達姉妹は後部座席、私は絶対左側で妹が右。
助手席に憧れてオネダリを何度もした、根負けして膝に数回乗せてもらえたっけな。
買い物に行ったり遊びに行ったり。
そんなこんなで年中さんの年が終わる頃、父の転勤が決まった。
転園するからと、クラスのみんなが書いてくれた寄せ書きが今でも実家のどこかにしまってある。
ちなみにこの頃のスイミングのお友達とは高校生になった時、また同じクラスで泳ぐ部活仲間になるんだよね。
という所で今回はここまで。
次回、保育園編。