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映画『リズと青い鳥』 それでもあなたと

息を潜める


鳥を観察するように


学び舎という名の鳥かごの中


どこか苦しげなさえずりが聞こえる








水彩画のような、淡い色彩。
解けてしまいそうな、曖昧な輪郭。
TVシリーズとは大きく異なる写実的な絵のタッチは、それだけで強固な世界観を作り出している。
しかしそこには、ただ美しいの一言では済ませられない、息苦しい緊張感も漂っている。
触れたら壊れてしまいそうなほど繊細で、けれど鋭さも感じるこの作品は、ガラス細工のようだ。



カメラは、彼女たちを遠くから覗き見るような視点を中心にしつつも、時に大胆に近づく。
不意に拡大されるのは、うつろう視線であり、震える肩であり、所在なさげな手足の動きである。


その身体を揺らすのは、彼女たちの内側で押し殺された思いや、閉じ込められた言葉の叫びだ。
見ている者は、その声なき声に、自然と耳を澄ませることになる。

また、明確なストーリーラインがないことも、細部に意識を向けることを促している。
タイトルにもなっている『リズと青い鳥』という童話が下敷きになってはいるが、それはあくまで、みぞれと希美の関係の投影先として働く。
物語はとある日の登校シーンから始まり、そしてまた別のある日の下校シーンに終わる。
この映画がフォーカスするのは、その差分が生まれる過程だ。


TVシリーズにあったような、オーディションや大会といった一つの区切りと言えるようなイベントはなく、あるのはただ日々の練習風景だけ。
もの静かな劇伴のもと、登場人物の口数は少なく、抑制され張り詰めた音響の中、高い解像度で断片的な日常が映し出される。
見ている者は、ありふれた繰り返しの中にある、様々な揺らぎを目の当たりにすることになる。


その揺らぎの影にあるもの。
みぞれと希美が内に秘めた、声なき声。
それは決して一言に要約できるものではないが、その核には孤独がある。

物語は、みぞれの孤独に輪郭を与えながら進んでいく。
引っ込み思案で友人の少ない彼女の姿はリズとよく重なり、そのことは本人も自覚的だ。
しかし物語の後半、進路の話をきっかけに、それが一面的な見方に過ぎないことが明かされる。
すなわち、希美には希美の孤独があるということが。

そしてこの映画の中では、彼女の孤独は詳らかにされず、辛うじてその影を捉える程度にしか描写されない。
そのためこれは憶測に過ぎないが、希美が抱えていた孤独とは、みぞれが惹かれて止まなかった、彼女の軽やかさにこそあったのではないだろうか。


希美がみぞれの楽器の才能に対して、妬みに似た焦りの感情を抱いていたと捉えることは、それほど不自然ではないだろう。
彼女がみぞれに対して「みぞれが思っているような人間じゃない」と自白するのは、彼女の内に後ろ暗い感情があることを示唆する。

焦りの裏には不安がある。
彼女の場合それは、自分にはこれがあると言えるような、拠り所を失うことへの不安だった。
言い換えれば、何者にもなれないことへの不安だ。
彼女が本番を楽しみにしていたことも、音大へ行こうとしたことも、フルートが自分の拠り所となることを確かめる行為と言える。
そこで希美が証明したかったのは、人に認められるような特別さだ。
みぞれから見れば、軽やかで可能性に溢れているように見えた彼女が、その実、一所に留まっていられない自身の軽さに悩んでいたのだとすれば。
1年の時に一度部活を辞めた過去も、その気持ちに拍車をかけたのではないだろうか。


彼女がその不安にどこまで自覚的だったかはわからない。
希美は、相手が自分の本心を確かめようとするとはぐらかす。
その態度は、みぞれだけでなく優子との間でも見られた。
深刻な調子をいなす仕草は、その先で自身の軽さに向き合うことへの恐れを想像させる。

しかし、みぞれの存在が、無自覚でいることを許さない。
彼女は、希美が何より欲した音楽の才能を持っていた。
みぞれにとってはコンプレックスだったかもしれない、寡黙で内向的な性格さえも、希美にとっては持つものと持たざるものの対照性に思えたかもしれない。
まして、みぞれはその性格のまま、希美の手を借りることなく、後輩たちと関係性を築いてみせたのだ。
希美が、自分には一体何ができるのかと、焦燥感に駆られることは容易に想像できる。


デカルコマニーの表現や、2人が互いに言葉を補完しあう演出は、鏡合わせで対等な関係の成立を匂わせるが、しかしそこではむしろ、覆し難い不均衡が露呈している。


みぞれはほとんど自覚しないまま、そんな現実の残酷さを突きつけてしまう。誰より大事にしたいはずの相手に。
より残酷なのは、自己否定感情に苛まれる希美に、彼女を肯定しようとするみぞれの言葉が届かないことだ。
希美の孤独、懊悩に、誰よりも手を差し伸べたいのに、掴み返してもらえない。

みぞれのオーボエが好き

彼女が求めた形とは程遠い愛の形。
その冷たい距離に、みぞれもまた傷ついた。
もし2人の関係に対等さを見出すならば、この傷つけあいだろう。


あなたが好きな私と、私が認めてほしい私は違う。
私が好きなあなたは、あなたが認めてほしいあなたとは違う。


そこで目の当たりにしたのは、互いの孤独の形だ。
混じり合う赤と青の水彩表現は温かくて柔らかだが、どこか少し、血が滲むような痛みも感じた。




すれ違って、傷ついて、空中分解してもおかしくなかった2人の関係は、しかしどうにか不時着してみせる。

みぞれの思いを受け止め切れなかった希美は、唐突に笑い出したかと思えば、ありがとうと口にする。三度、確かめるように。
それは、彼女が何度も見せてきた、人の深刻な感情をいなす仕草と似てはいるものの、やはりどこか一線を画しているように映る。
ここでの希美の感情の変化を推察することは難しい。
ただその直後、みぞれを吹奏楽部に誘った場面を彼女が思い出していることは、明らかに何かを示唆している。

自身の価値に悩む希美。
彼女はかつて一人の少女の孤独を救った。
それはほんの気まぐれだったかもしれない。
そこに、精神的に優位を保てる存在への安心感を本能的に嗅ぎ取っていたのかもしれない。
しかし、その少女がいま、今度は自分の孤独に手を差し伸べようと、必死に藻掻いている。
そこで、はたと気づく。
何もかもなくしたわけではなく、何もなし得ないと決まってたわけではない。

不可解な彼女の笑いは、深刻ぶっていた自身の態度に向けられたものだったのではないだろうか。
もしそうだとしたら、その絶望の乗り越え方には、実に彼女らしい軽やかさを感じる。

そうして希美は、檻を抜け出した。
音楽で何者かにならなければいけないという、強迫観念の檻を。
大きな痛みを伴って。
そしてその鍵を開けたのがみぞれなのだとしたら、みぞれの思いは、彼女が願った形ではないにしろ、希美に届いたと言ってもいいのではないだろうか。
だからこそ、希美は感謝の言葉を口にした。
あるいは、感謝の言葉を口にすることで、前を向こうとした。




第三楽章、愛ゆえの決断。

リズが選択した決断とは、別れではない。
埋めがたい孤独を抱えながら生きていく覚悟。
その重荷を誰かに預けようとしない決意だ。


映画の最後。
2人で歩く帰り道。
些細な会話のすれ違いに、みぞれはもうたじろがない。
ずっと揃わなかった2人の足音はついに重なる。


理解し合えない断絶があることそれ自体は、本質的な問題ではない。
歩幅もリズムも、進む道さえ違っても。
それでも一緒にいられることを暗示するユニゾン。



希美の言葉を思い出す。

青い鳥って、リズに会いたくなったら、また会いに来ればいいと思うんだよね

身も蓋もない話ではあるが、それでもなおこの人と一緒にいたいと思える何かがあることは、実は何より大事なことではないだろうか。

さしあたって道が分かたれはしたが、その足取りに強さと安心感を覚えるのは、2人が“何か”を見つけたからだと信じたい。

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