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映画『もっと超越した所へ。』感想
見せられちまったぜ……超越した世界の景色ってやつをさあ!!!
あとから予告を見たんですけど割と仕掛けを見せちゃってるんですね笑
なんも知らずに見に行ったから素直に驚いてしまった。
とはいえわたくし天邪鬼なので、こういうセンセーショナルなタイトルを見ても斜に構えてあまりその部分には期待してなかったんですよ。
でも見事に食らっちまいましたね。
超越の仕方が全く予想していない方向だったというか、なんとなく自分が大事にしたいと思っている価値観とも結びついていてびっくりしてしまった。あ、そこで目があうんだ、っていう。
大胆な演出的な仕掛けとそれに付随する観念的な意味が共鳴しているの、めっちゃ感動します。
・美しい、けど大人しい
4組の男女の恋愛模様を並行して描いた本作は、基本的に1つの部屋の中での会話劇を中心に展開していきます。4つの空間を行ったり来たり、時間も行ったり来たり。(日にちも4日間だったかな?)
そうしていくうちに、段々とそれぞれのダメ男の秘密や本音が明かされていきます。
プライドや見栄を守るために、根拠のない自信を持ち、責任から逃避し、他人を搾取、利用する。夢や希望に浮かれて自分に都合の良い世界を作り上げ、地味で辛くて面倒ばかりの現実の切り盛りは女性に押し付ける。
「毎日生きて生活していくことって、もっと楽じゃないことだから!」
4人ともかなり極まったダメっぷりではあったものの、この種の男の弱さや情けなさとそれを踏まえた開き直りみたいなものは、程度の差はあれど誰しも思い当たる節があるんじゃないかと思うのです。
私も見ていて肩身が狭いというか居心地が悪い感覚を覚えたんですが、他の人はどうだったんでしょうかね……。
そして物語の終盤、とうとう4人の女性がそれぞれの男の本性に迫ります。
女性に甘えるクズ根性とあまりに脆いロマンチシズムを喝破し、女性は新たな日常へと回帰して強かに生きていく。
米を買う、研ぐ、温める、握るという4者4様の日常の象徴は、冒頭のシーンと対をなしていました。
なるほど、たしかに構造としては美しい。
4組のカップルのバリエーションと隠されたつながりも面白い。
男のダメさがじわじわあぶり出されて糾弾される様は痛快だ。
けど、なんかタイトルの割りに大人しい……。というか、結局人を変えて同じことを繰り返しただけにも見える。
そういう虚しさややるせなさを伝えたかったのか? でもそれって超越はしてなくない? 観客の想像に委ねるってこと?
そう思った矢先の超越。
時間も空間も、泥臭い気合と根性で飛び越えてみせた。
やけに狭い閉じた空間も、大げさな時間変化演出も、このカタルシスのための布石だったんですね。
その驚きだけでも十分面白いし最高だったんですが、私が特に感銘を受けたのは、時空間だけではない、認知の超越がそこにあると感じたからでした。
・妥協と呼ぶなかれ
4人の女性が一堂に会して、話し合います。
「妥協も必要だよね」
「これ以上自分のことを好きって言ってくれる人と出会わないかもしれない」
「嫌いなところもあるけど、好きなところもある」
「好きって思える人と一緒にいられることは幸せだよね」
「相手ばかり悪いわけじゃないし」
そうして、彼女は一度は決別した男を受け入れる選択へとやり直すのです。
一見すれば彼女たちの選択は“妥協”に見えるし、実際4人のうちのら1人がそう口にしています。
しかし、それを“妥協”と捉えず、“愛”と捉える。
そういう認知の超越がここで起こっているんだと私は思いたい。
ある世界からは妥協に見えたものが愛に見える世界へ超越したのだと。
ここでいう愛とは「見返りを求めず自ら与えること」という、フロム的な(個人的にはピングドラム的なと言いたいところですが)愛のことです。
相手を自分の価値観や理想に照らし合わせて、より理想的な相手を求める。その試行錯誤を続けていればいつかきっと、理想の愛すべき人に巡り会えるはず……。
そうしていつまでたっても稚拙な正論マウントゲームの土俵から下りられず、相手よりも自分が正しかったという地固めはできても、自らの孤独を癒やすには至らない。彼女たちが自ら言及した通り、自分たちもまた不都合な真実を抱えている以上、いつ糾弾される側に立たされ、愛されなくなるかわからないんです。それをひたすら隠すか、それでも受け入れてくれる誰かを待つか。そこで得られるのは、条件付きの愛でしかない。
つまり自分が変わることなく相手を変えることで、対立や摩擦の起こらない満たされる瞬間が訪れることを期待しているわけで、その中心にはいかに自分が受け入れられるかというテーマが残り続けています。
その価値観においては、彼女たちの選択は妥協に映るでしょう。しかし、ラストシーンで文字通りお祭り騒ぎをする歓喜に満ちた彼女たちには、ネガティブなイメージが一切なかった。
ここに、認知の超越があるんじゃないかと思うのです。
つまり、彼女たちは妥協して何かを諦めたのではなく、この人を愛そうと決断したという読み換えです。
誰かを愛するためには、相手を深く知る必要があります。
クズ男というタグを貼り、私と相容れない存在であるという烙印を押し拒絶することは、たとえそれが今否定し難い事実であるとしても、相手を理解した気になる行為に変わりありません。
そこに、待ったをかける。
眼の前の人を一個の人間として認め、尊重し、さらにより深く知ろうとする。
だからそれは妥協ではなく、保留あるいは探究の途上と表現したほうが適切なのかもしれません。「彼の本性、弱みを暴き立てた」という事実も、「彼の孤独や苦悩を深く知った」という事実に書き換わるわけです。
相性の良い誰かを待つという受動性から、特定の個人を愛する存在になろうとする能動性へ。意識の変革、すなわち超越が起こった。
もちろんその先に成功が保証されているわけではありません。
しかし、まず愛さなければ、このループからは抜け出せない。そのための決断なのだと思います。
もっと超越した所へ行くには、その決断と勇気がなければならないのだと。
あの多幸感に満ちたラストシーンには、恋愛ゲームの土俵から下りて何か呪いのようなものからスッキリ解放されたような清々しさがありました。と同時に「その先に希望の光があるはずなんだ! 私達はそこへ至るための選択をしたんだ!」という決断した者が持つ燃え滾る信念のようなものも感じたのでした。
・持てない荷物と持てる荷物
とはいえ、その勇気を持つことは簡単ではない。
過去の自分への背信。
ただ無条件に愛されることへの期待の放棄。
後悔に駆られるかもしれないという不安。
誰だって怖いはずです。
だから仲間がほしい。「そうだよね、それでいいんだよね」って言い合える仲間が。
「最悪の場合でもこういうメリットはあるよね」という自分への言い訳、保険が欲しくなるんです。
それが米。メシ。ライス。
見ながらつい下らなさに笑っちゃったんですけど、案外これが作品テーマと結びついて示唆に富んでるなとも思いました。
彼女たちが成し遂げた、誰かを愛そうという決断。
それは誰かを知ること。誰かが抱える孤独を、苦悩を、精神的な荷物を知ること。
しかし、その荷物が何であるかを知ったとして、やはり持ってあげることはできない。
人間に支え合うことができるのは荷物ではなく、その荷物の重さに倒れそうになる体だから。
あなたの精神的な荷物を持ってあげられない。
だから、せめて現実世界の重力は分け合おう。
米重いよね。持ってあげるよって。
それって、すごく大切なことだと思うんですよね。
それに重たい米は、ありふれた面倒な日常の象徴。男性が女性に押し付けてきた、地味で辛くて面倒ばかりの現実の象徴でもあるわけで。
現実世界の重力という呪いを分け合う行為ってのは、なんだか超越を志す理由として象徴的じゃないですか。
・覚悟を決めよ
とまあ成熟した愛に一歩近づいた彼女たちでしたが、そのアクションを起こしたのは4組が4組とも女性なんですよね。
事ここに至ってなお、男性は他者からの庇護と救済を待っていた。
しかし、愛するという決断から逃げ、己の欠点に蓋をして直視せず、ただ愛されることを待つ弱さを抱えているのは、男性も女性も同じはずです。その歩み寄りはどちらが先でも良いはずなのです。
にも関わらず、そこから一歩踏み出す決断と勇気を女性だけが担った。そこには、男の未熟さとそれが許されるものだと考える甘え根性に対する、憤懣やるかたない作り手の思いを感じたりもしました。
覚悟を決めなければならないのかもしれない。
愛されないことへの恐れに立ち向かい、己の弱さに向き合う覚悟を決める。
そうして誰かを真剣に愛そうと決断したその先に、超越した世界の景色が広がっていると信じて。
いつかその世界で、大切な誰かと笑っていられることを思い描いて。