情報のすがた(バックミンスター・フラー『バックミンスター・フラーの宇宙学校』)
20200822
先日、妻のロルフメソッドのセッションについていった。この間行った時にいろいろ聴いた話がおもしろくて、また話を聴きたくなった。
ロルフメソッドでは、人体をテンサグリティに見立て、10回のセッションを通して、全体性を取り戻す、表出させるようなことをするのだとか。
といっても、テンサグリティは後付けらしい。
後継者が「ロルフメソッドで言ってんの、これじゃん!」となって説明しやすい原理として採用した。
フラーのつくったテンサグリティという造形が、ロルフメソッドのもつ原理の部分の情報を照らしていたとでもいうか。
そんな話を聴きながら、バックミンスターフラーのつくりだした造形は、物質ではなく情報だったのかなと思う。
情報としての造形であり、その造形を通して、新たな情報がうまれる。
その連鎖の、触媒としての造形。
「個人を超越した道具をデザインすることによって、個人が、個人の経験を分析的に用いながら周辺のパターンを再編成するという方法を、わたしは何年も前に探りはじめたと述べた。(中略)わたしは、的確なデザインをすることによって“汚染されていない”情報が増加し、それが家庭環境に直接送りこまれることになると思っている。わたしの哲学は、つねに生命のない「人工物」に翻訳させなければならないものであることを忘れないでほしい。」(『バックミンスター・フラーの宇宙学校』)
情報に姿をあたえているっていう意味あいでは、水木しげるの妖怪もそうだし、『千と千尋』の神様も。
また、ダイアグラムだとも言えそう。その辺で荒川修作のダイアグラムの連作や、クリストファーアレグザンダーの論考なんかと親和性が連関がみつかるかもしれない。
共通するのはきっと、情報にどうやって全体性をあたえられるか、ではないだろうか。
アレグザンダーの有名なツリーとセミラチスであれば、局所認識と全体性について。
フラーはその全体性を、発明といいたくなる物質、ダイアグラムとして残していった。
衝撃をうけながら、瞑想がもつ、個人の全体性の回復について想いをはせる。
フラーの全体性への意識をどう転回できるか、考える。