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遍在
20210713
先日ご高齢の女性と瞑想をご一緒した。
僕の方でリードさせてもらいながら5分間の瞑想を共にする。5分が経つとタイマーが鳴り、余韻に浸りつつ、ご自身のタイミングで目を開けてもらうよう伝える。
割合多くの方が、この余韻の時間を楽しんでるようにみえる。すこし間を置いて、味わって、ふーっと目を開ける。
それが、この時ご一緒した女性は、余韻で目を瞑ってる時間がすこぶる長かった。
これまでに何度かご一緒してて、毎回長めではあるのだけれど、この度はまた特別に長かった。
余韻を邪魔すまいと、静かに様子を見る。
体がたまに揺れたり(でも軸がブレたりするわけではない)、指先がモゾモゾ動いたりしている。
ふむふむと見ているうちに5分くらい時間が経つ。
そうなると段々心配になってくる。
ご高齢の方と瞑想をご一緒するって経験、僕はその方が初めてなので、なんだか戻ってこれなくなってたりするのだろうかと不安になる。
それで6分を過ぎたあたりで「〇〇さん」と声をかける。
すると、ゆっくり微笑みながら目を開けられて、「ああとっても気持ちよかったです」とおっしゃる。
よかったと思いつつ、声をかけてしまって申し訳なかったなとも思う。
さっきはどんな具合だったのかを聴かせてもらう。
「すごく気持ちよくて。瞑想の間も、終わった後も、どこかいろんな場所に行ってる感じがありました。指先がすこし動くたびに、どこかへ行ってる感じでした。」
これはスゴいなあと思った。というかうれしかった。
別に何が正解とかもないのだけれど、僕が瞑想をキッカケとして目指したいのは正にそういうことだったから。
身体の状態、呼吸の状態ひとつで、世界を行き来する。世界をつくる。そんな主体というか環境のあり方を理想としてる。
変性意識やトランスなどと呼ばれるような、その都度の支配的な意識状態に対するオルタナティブとしての意識状態。
当たり前としてある現世とは異なる、遍在する場所へのアプローチ。
それは移動でもあるし創作でもある。
芸術と呼ばれうる技術は、そんな意識の変容を外側からあるいは(主体それ自体を組み換えてしまって)内側から、促すモノであろうと、あってほしいと勝手に信じている。
自分にとっての拙いながらの一つの理想を、回数にして数回の方が、瞬間的にでもたどり着いたことに、羨むと同時に感動する。
そして、これまでに積み重ねてきた日々を想う。
次回は、すこし、瞑想の時間を長くしてみようと思う。