
おおらか
20201127
「君、鍼灸師になれば?」
大学院(建築)の卒業式の時にかけられた言葉だ。
大学生活で影響をうけたり、不意に思い出すモノゴトがいくつかあるのだけど、そういった中で、一番覚えてる言葉のうちの一つが、「君、鍼灸師になれば?」である。
その言葉を下さったのは隣の研究室のN先生だった。僕の先生の先生にあたる方。
直接の指導教官ではなかったけど、授業を受けたり、建築史研っていうくくりとしてお話うかがったりして、お世話になっていた。
その言葉をかけてもらったいきさつとしてはこうだった。
大学院卒業の時には、僕は今の妻と結婚することを決めていた。それで、いろいろ話すうちに、鍼灸師の女性と結婚するんですよ、という話になった。
それを聴いたN先生が、「そうか、鍼灸師はいいぞ。I先生(N先生より1世代ほど上の先生)が昔言っていてな。建築家は全然喜ばれない。鍼灸師はそれは喜ばれる。」みたいなことをおっしゃった。
それで「君も鍼灸師になったらどうだ」となった。
建築の大学院出てこれから働くぜ!ってタイミングで、鍼灸師どう?って、状況次第では結構な皮肉に聴こえかねない気が、今振り返るとする。
でもN先生の言葉からは、そういった感覚は一切湧かなかった。
多くの時間を共にしていたわけではないから、N先生の細かい人間性なんてわからないけど、なんとなく、この人は余計なイヤミは言わない人だろう、というよくわからない信頼があった。
そういうおおらかさという、大きさみたいなのを勝手に感受していたんだと思う。
そんな印象もあって、「鍼灸師どう?」を思い出しても、凝り固まった先入観なく、アレは自分にとってどういう言葉なんだろうと素直に見つめられる感じがある。
そして現在、結果的には、鍼灸に関わってるのもおもしろいなあと思う。僕自身が鍼を手に取るわけではないけど、妻の話を聴いたり、妻の思考に形を与えたりするたびに、鍼灸の考え方に触れてる。
瞑想を伝えようっていうのも、僕の中でいけば、妻の鍼灸の延長線上にある。
誰かに身体をゆるめてもらう。その先に、自身で心身を整えていくってのがある気がしてる。その手段の一つとして、瞑想は効果的だと思っている。
N先生がどうしてそういう言葉を僕に下さったかはわからない。
いわゆる建築業界だとエネルギーを持て余すだろうってのを察して下さってたのか、コイツ向いてねえなあと思っていたのか。たいして何も考えてなかったか。
いずれにせよ、スッと吐かれた言葉は、当人も気づかないうちにスーッと染みこんでいることがあるのだろうなと思う。
スーッと染み込む、暴力のない言葉が生まれる場所をつくっていきたいなあと思う。