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成功と幸せは身体の中しかない
20200916
「10年は修行しないと!」
みたいなことを耳にすることがある。
ほおほお、と思う。
この人は、そういう修行を重ねてきたんだなあ、それはしたくなかったことだったのかなあ、とか考えてしまう。
その人の、今につながる10年はとても尊いそれはゆるぎない。
ただ、そう人に伝えたくなる思いには、賛同しがたいなあと感じてしまう。
「俺が/私がした苦しみをあなたも味わいなさい」と言いたいのかなあと邪推してしまう。
そんな悪い妄想をしてしまうたびに、ありとあらゆることを、技術の集合と捉える癖をつけたいなあと、個人的には思う。
Aさんが成功してるのはなぜか。成功をつかむ技術があるから。
Aさんが売れているのはなぜか。売上をつくる技術があるから。
Aさんが人から慕われるのはなぜか。相手を慮り、自分と相手に誠実でいる技術があるから。
10年の修行で手に入れるのは技術だと思う。
技術の背後には研鑽がある。研鑽は決して我慢じゃない。我慢の量は一切関係ない。
Aさんが、Aさんにとっての成功をつかむための、Aさんなりの技術があって、その背後にAさんなりの研鑽がある。
モノゴトを技術として捉える。ドライに、唯物的に捉えることをベースにもっておくと、我慢やそれに付随する嫉妬の感情を少なくできるんじゃないかなと思う。そう、自分で自分に期待している。
そして、ネガティブが減るってだけじゃなくて、ああ自分も研鑽すればいいだけじゃん!何でもできるわ!と安心できるような気もする。
天才はいない。
ある技術に到達するまでの研鑽の量と質が、他人の常識の範疇にいない者を、人は天才と呼ぶんだと思う。
清々しく、天才はいない。もしくは、誰もが天才。
もう一点、モノゴトを技術として捉えるとスッキリすることがあるように思う。
成功は、各人の身体が絶対的にベースにあることが意識できる。
イチローの成功は、イチローの心身があることで積めた研鑽の上に成り立つ。
イチローの記録をめざすことはできても、イチローの成功をトレースすることはできないはず。
成功は各人の心身がベースになるから、他人の中に目指される成功は存在しない。
各自の身体の中にだけある。
成功のバリエーションが数パターンしかない時代には、どのルートで成功するかを選び、そのルートから外れないようにしていたのかもしれない。
自分の身体を、他人の身体にアジャストする。それが、努力や我慢、やりたくないことの積み重ねにつながる。
今生きている感覚としては、成功のバリエーションなんて溢れているし、これからいくらでも増えるだろうし、というかそれこそ自分でつくるもんでは?って意気込んでる。
「成功は各自の身体の中にある」
それはもしかしたら幸せもなのかも。