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色眼鏡を外した身体

20220620

「ヴィパッサナー瞑想って、マインドマップみたいなことですか?」と瞑想をご一緒した方に質問をいただく。

マインドマップはアイデア出しや思考の整理に使われる板書の類。

何か一つ中心となるトピックを決めて、そこから関連内容を枝分かれさせていく。

連想を広げていくことでアイデアを探す手がかりとしたり、情報の流れを整理したりする。

ヴィパッサナー瞑想の、やり方の説明として、「中心対象を設定して観察。他の対象に気づいたらラベリング(短い言葉に)して、中心対象の観察に戻ってくる」とお伝えしていた。

マインドマップを思い浮かべながら、たしかに、と思った。それと同時に、真逆だなとも思った。

ヴィパッサナー瞑想は、マインドマップで手が伸び枝分かれでしていくことを、止める。連想や情報が流れていくことを遮断する。

そして真ん中、中心のトピックにひたすらに帰ってくる。

あるモノゴトの体験がある。

その体験を人は色眼鏡でみてしまう。

今までの経験や、体や心の癖でもって、その体験を解釈する。妄想という連想を重ねて、その体験とは程遠い場所で、「◯◯だ!」と決めつけて世界はある。

ヴィパッサナー瞑想(≒マインドフルネス)は、徹底的にモノゴトそのものの観察に留まりましょうね、という練習である。

その練習を繰り返すことで、できるだけ色眼鏡をはずして世界を見渡すことを目指す。

なんてことをお話しつつも、「でもそうやって0のままじゃ、他者というか社会というかと生けていけないんですよね」なんて話もする。

0を目指す。それは仏教の、特に顕教的な教えだろう。

ただ多くの人は仏教徒ではない。出家もしていないし、お坊さんでもない(坊主頭だけど僕もそうです)。

一人ひとり、さまざまな事物が寄り集まって存在する社会があり、その中で生きて死ぬ。

そんな命を満喫しようとするとき、0でいながら0でなくなることが肝要なんだと思う。

マインドマップという平面上に即して言えば、360°全方向に思考を展開しながら、必要とあらば即座に中心に戻ってこれる。

これはアイデア出し一つを例にしても重要なことだろう。

ピンとくる新しいアイデアが出てこないのは発想が凝り固まっているからで、それは360°に思考が展開されればいいところを、特定の角度にしか広がりを持てていないということではないか。

0と360°の往還。あくまで普通の人たちが瞑想をやることのメリットとはそんなことだろう。

名を成した人たちが(その人たちは仏教徒ではないだろう)瞑想をしていたとよく聴くのは、そんな自在さとうまく付き合えていたのかななんて思う。

色眼鏡を外して世界を見渡すよりも、色眼鏡を外した身体をもって世界に分け入っていく。

瞑想を通じてそんなことに貢献できればと思う。

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