しなやか
20210318
瞑想をしていると、身体の内側みたいなモノが、モゾモゾと動くのを感じることがある。
外からみて実際に動いているのか、どの程度動いているのかはよくわからないけれど、そういう実感がある。
微細な生がうごめいてるとでも言いたくなるコレが、実に気持ちいい。
このうごめき自体が気持ちいいのか、うごめきを感受できる身体の状態が気持ちいいのか、わからないけれど、この感じを味わうために瞑想してんじゃないかって気さえする。
瞑想稽古場、スタートさせて、およそ3ヶ月が経とうとしている。
ぼちぼち、ぽつぽつと、通ってくださる方がいてとてもうれしい。
瞑想を伝える、それで対価をいただくってのは、生きてることの罪みたいなものから、免れられてる気になれる。
恐ろしいほどの自己満で、瞑想をやってるし、それを伝えようとしている。
まあ、僕の場合は、それは瞑想に限ったことではない。
というか、僕にとっても、どこかの誰かにとっても、自己満できる身体を手に入れられるキッカケになったらいいなと思っている。
自己満って言葉の、ベトついた感じに気持ち悪さもある。多少言い方を変えれば、自分で自分を救う身体とでも言うか。
瞑想の何がいいやら悪いやら、いろいろ研究は進む。けどそれに特に触れたいと思えない。
僕が試行錯誤して手に入れたわけではないモノを、訳知り顔でまとめて伝達することに、なかなかワクワクできない。
というか、そのイイゾイイゾって声によってくる人に、あまり会いたくないような、めんどくさい天邪鬼が、身体に巣食ってる。
スピリチュアルでもなんでもなく、必要な人には、必要なタイミングで、勝手に出会う。そういう偶然性を信じたいし、愛したい。
冒頭のうごめきは、いわゆる変性意識状態の一種だろう。
コレは、入ってしまえば、誰だってある種の気持ちよさがあるのだろうと推測する。
それは現世からいなくなることだと思うから。
この現世、現実に居座りつづけてうれしそうな人ってのが、僕にはあまり想像がつかない。
認識や現実を、そのつどしなやかに行き来できるってのは、誰だって心地よいのではないかと、勝手に想う。
それが、古典的な宗教を通してなのか、各種芸術でなのか、はたまた合法から違法までの嗜好品なのかは、人それぞれ、向き不向きを伴って、ああだこうだすればいいと思う。
瞑想って行為も、そういった心地よさに与するところがあると想っているし、あってほしい。
お金かからず、身ひとつで、自在に行き来できる体験として、瞑想イイゾってことでした(宣伝しないと言いながらの宣伝です)。