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にわとり

20210427

2日前家に鶏がきた。4羽。

妻が、知り合いの養鶏家さんから、ゆずり受けた子たち。

年齢は2歳。

寿命は10歳程度のようで、卵を産む家畜としての現役は、2歳いかずでおわりなのだとか。

卵を売るっていうビジネスの担い手からは引退した鶏ちゃんの、次なる引き取り手になれて、娘も妻も、そして僕も(あと飼っている犬も)、ドキドキワクワクの日々を過ごさせてもらっている。

来てくれた翌日の朝、早速卵を産んでいた。

4羽のうち、2羽の子が産んでくれたみたいで、ひとつは娘が取り上げた。

産卵箱の中をのぞいて、卵があって、娘は悲鳴かのように甲高い声ではしゃぐ。

腕を入れ、そっと卵を手にして、一言。

「こっこちゃん、産んでくれてありがとう。うれしいね。」

第一声でこんなことを言えるのかと、驚くとともにうれしくなる。

もうひとつの卵は、僕が見つけて取り上げた。

娘が保育園に行ったあと、鶏の様子をみに外に出て、産卵箱をのぞくと、あった。

今朝から数えてふたつめだったから、ひとつめほどの感動はおぼえず、ためらうことなく、さっと手で持つ。

と、その持った瞬間に、なんだか揺らぐ。うるっとくる。

卵のあたたかさなのか、まるみに手がフィットした具合なのか、理由はわからないけれど、ズシーンと身体に響くモノを感じる。

うちの家では「命のバトンに祈りを ありがとう いただきます」と言葉にして、食事をはじめる。

すこし前に、いただきますじゃなんだか味気ないかなと妻が言いはじめ、こんなのどう?と韻を踏みつつ口が歓ぶといいなと提案して、採用された。

卵を手におさめ、家に入って急に、ああコレがバトンかと、全身に走る。

いつも口にしていた言葉が“成る”っていうのはこういうことなのかなと腑に落ちる。

何か良さげなことを言いたいとかではなくて、そこに確かに言葉や身体や命がブツとしてあって、それが飛び込んでくるというか。

そんな体験を言葉にしておこうと、書いている。

今こうして書いていることも、次の瞬間にはちがっているかもしれないけど、コッコちゃんはその都度何かを連れてきてくれるだろうし、身体はその都度何かを受け容れていくことでしょう。

そんな機会に感謝を。

コッコちゃんへ、ようこそ&ありがとうを込めて。

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