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日曜の「サザエさん」が終わる日

『フェミニズムってなんですか?』清水晶子 著:文春新書

 日曜日の夕方、妻はいつも決まってテレビで「サザエさん」を観ながら洗濯物を畳む。僕は大体台所にいて、ちょうど夕食を作っている。
 結婚して一番変わったのは日曜の夕餉の過ごし方だ。だって、僕はサザエさんなんか観たのは子供の時以来。時代背景が昭和だからか、なんとなく懐かしくて、平和でほのぼのとしていて日曜の夕方って気がする。
サザエさんではよく一家団欒の場面が出てくる。卓袱台を囲んでの光景。波平が茶の間でお茶を啜りながら新聞を広げて、専業主婦のフネとサザエさんが慌ただしく夕食の準備なんかをしている。
 でも違和感があったのは、僕は妻と二人暮らしだから(猫もいるが)だろうか。
 いつか妻に、なんでいつもサザエさん観てるの?と訊くと、タマが可愛いから、って。たぶん彼女も大した理由はないのだと思う。せいぜい、いつもの習慣だからくらい。
 そう言えば、ある若い女性作家が「一家の主である波平は、大した稼ぎもないのにどうしてあんなに偉そうなのかわからない」って言ってた。
 それを聞いて思わず笑ってしまったけれど、でも案外的を突いている。なぜなら、僕も少しそう思ったから。

 本書の著者の清水晶子はフェミニズムとクィア(性的マイノリティの概念)理論の専門家。
 本書は広義的な意味におけるフェミニズムについて、分かりやすくダイジェストされた入門書。
 ちなみに僕は、団塊ジュニアの世代で第三波フェミニズム(~1990年代)に十代を過ごしている。本書でも対談に登場する長島有里枝とか、ヒロミックスとかが雑誌を賑わし、ガーリーカルチャーとか言われていた頃。とにかく自分のまわりの女の子たちもポップで元気だったなぁ、と思い出す。なるほどこれもフェミニズムだったんだ。

 本書が扱うフェミニズムは例えば、性と生殖に関する健康と権利の問題(リプロダクティブ・ヘルス/ライツ)、トランスジェンダーや人種と性のこと、性暴力、日本の性教育、夫婦別姓や同性婚の問題、ケア労働、セックスワーク、これからの家族観、など多義に渡り、それらがとても分かりやすく書かれており、そうだったのかという気づきに溢れている。
 なかでも、印象的だったのは「家父長制」の問題。本書でもかなりこの言葉が出てくる。広辞苑で調べると、家父・家長の支配権を絶対とする家族形態、とある。
 清水氏はこの家父長制の問題は性暴力の問題でもあると言う。家父長制とは、女性の再生産能力とセクシュアリティとを男性支配の存続のために利用する仕組み、であると。
 2015年に公開された「マッドマックス 怒りのデスロード」や、最近また話題のマーガレット・アトウッドの小説「侍女の物語」などもその典型が描かれていると。

 ここのところアメリカではトランプ政権下で持ち直した人口妊娠中絶問題が盛んに議論されている。この性と生殖の問題を誰が決めるのか、ということにどこまで国家が介入できるのかそもそも疑問。
 米国の中絶問題で根底にあるのは、伝統的な家族の価値観を守ろうとする保守主義。いわゆるノスタルジックな家族観やジェンダー観を持つ層が支えた。恐ろしいことだと思う。ひとつの家族観の在り方、ジェンダー問題が排他主義やヘイト、民主主義を揺るがすことにまで発展していくなんて。
 日本でも、少し前に麻生副総裁が、少子化についての最大の原因は晩婚化・晩産化、と言ったことは記憶に新しい。どこまで信憑性のある言葉かそもそもわからないが、自分たちが率先して作ってきた社会状況はさておいて、すべての原因を女性に求めるのは乱暴すぎると思う。しかもそれ、男が言うかぁ、ってやつ。どちらにせよ、婚姻や生殖のことにどこまで、おっさん政治が介入すべきなんだろう。
 
 ちなみに冒頭のサザエさん。別にサザエさんのあの番組が悪いということではないので、悪しからず。
 でも、この不況のニッポン。僕たちのまわりでも夫婦共稼ぎは当たり前。    そんな世の中で男は家庭外で働き家族を養い、女は家庭内で家事に勤しむこういった古い価値観、家族観って何なの?
 ある意味、時代錯誤的な、緩くもされど家父長制とはこういうことか。日曜の夕方の理想的な家族を演出して見せる悪意なき刷り込みは、大袈裟な物言いかもしれないが、気を付けるべきだろう。未だに古き良きものとして語られる状況そのものには多少懐疑的になる必要性はあるんじゃないのかな。
 時代が変われば、家族も変わる。フェミニズムを考えることは家族を考えることでもあるのだと本書を読んで気づいた。

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