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悲しみよ、こんにちは。

フランソワーズ・サガン「悲しみよ こんにちは」:河出書房新社

言わずと知れ、サガンのデビュー作。ノーベル賞作家モーリヤックが「小さな可愛い怪物」と本作でサガンをそう表現した。

ともかく、自分事ではあるが、山田詠美を読んだあとサガンを読まねば、と手に取る。なぜなのかは、よくはわからないが…でもそれが自分の読書術なのだと思う。

ひと夏、海辺の別荘で過ごす、セシルこと”私”とそのつかの間の恋人、女蕩しの父に、その愛人。きわめて自由に倦怠を貪りながらのバカンスとアバンチュールに日々の中に、亡き母の友人のアンヌが現れて…悦楽的な日々に亀裂が生まれ始めるのだが。

それにしても、フランスの小説なり、映画にはこうした太陽と海をめぐる心理劇というパターンは多いような気がする。カミュの『異邦人』とか。人を殺めたのは太陽のせいだ、というやつ。アラン・ドロンの映画『太陽がいっぱい』でも完全犯罪を目論む若者が最後、「太陽がいっぱいだ…」と感慨に耽るシーンがあった。かといって、サガンのこの小説で”実際的な”殺しはないのだけれど。とかく、太陽の下で、浜辺でつかの間の恋人と性愛に溺れるのみだ。しかしそこには恋の策略があり、それを誘発させるのはやはり、強い太陽なのである。太陽と海がセシルを麻痺させていく気がしてならない。

有名な冒頭の一文。

ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に悲しみという重々しい立派な名をつけようか、私は迷う。

結果的には、セシルは夏が終わるころには自分の中で”悲しみ”を背負うこととなる。それを物語的な成長と読むか、大人への分岐と読むか。どちらにせよ、若さとはことに残酷なものと思わざるを得ない。

私を泣きたくさせるような。なにかを抱えて、大人になっていくのだろう。誰しも。あの日、海で拾った美しい石を握りしめて。

誰かの名前を呼ぶたびに、さようなら。こんなにハマるフレーズは発明だ。

悲しみよ、こんにちは。

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