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複雑系な指導ということ

1.運動への未知の旅

先日の記事で、私たちの運動は単純な「意図⇒行為」という線形的なカタチでは記述できないということを書きました。

何故なら、私たちの「知覚⇒意図⇒動作」というプロセスには多種多様な要素が介在していて、そうなるとその挙動は複雑系の領域に突入して、とうてい中枢的な制御の効くものではなくなるからです。

そう考えると、自身の運動の制御はもちろんですが、指導者による運動指導というものの困難さが、ますます際立ってきます。

自身の運動制御ですら困難なのに、それがさらに他人の運動に指導しようなどとなったら、もうあてどもない未知への旅と言っても良いくらいです。

「指導者の指導(入力)」から「当人の動作(出力)」までのあいだのプロセスは、膨大な乗り換えと変換と伝言と翻訳の積み重ねで連なっており、それはもうそこでいったいどんな作業が行われているのか、とにかく外部からはとうてい観測できないプロセスを通るわけです。

むかし電気ポットで甘酒を造ろうと思って、他の家族が使ってしまわないように「使用禁止」と書いた紙を貼っておいたら気づいたら電源が切れていて、「ねえ、誰かスイッチ切った?」と聞いたら、父が「自分が切った」と言うので「え?なんで切ったの?」と半分怒りながら訊ねたら、「だって使用禁止って書いてあったから…」と言われて、「なるほど。そう解釈したか…」と、言葉の難しさを痛感させられた個人的体験がありますが、じつはあまり意識していないだけで、コミュニケーションというのはつねにそんな異世界への旅をしているようなものなのかも知れません。

そう考えれば、もう「言葉が届く」というだけでも本来奇跡なのですね。聞いてくれる人がいるだけ感謝しないと。どうもありがとうございます。

2.ベルンシュタイン問題

運動指導や整体指導ということを考えたときに、そのような「複雑系な私たち」の運動に対して、私たちはどんなアプローチができるのでしょうか?

ずいぶん昔にそのような問題に気づいて研究に取り組んでいたニコライ・ ベルンシュタインという運動生理学者がいます。

ベルンシュタインは、パブロフの反射理論が主流だった時代に、手を動かすという単純な行為でさえ50以上の筋肉と18の関節が介在する運動に、単純な「知覚―運動反射モデル」を導入することの疑問を投げかけました。

彼の提起した「仮定された中枢的な制御によらない運動の説明はできるのか?」という問題は、彼の名前をとって「ベルンシュタイン問題」 と呼ばれ、現在でも運動研究の際には外すことのできないテーマとなっています。

『一つは、「運動」を、身体という境界を越えて、運動が行われている環境にあることにまで拡げ、そこにあることと一体の「大きなシステム」と見なすことである。

たとえば、 スキージャンパーが空中でしている、全身のかすかな動きは、変化し続けている風向きや風の速度変化と接続している。ジャンパーの「空中姿勢」という運動は風や重力と一体にしか記述できない。
 
運動を環境と一つのものととらえる考え方は、運動に起こる障害のリハビリテーションの現場にも浸透している。たとえば持続して一定の歩行をすることに障害が現れるパーキンソン病のリハビリに、路面に一定の幅の縞模様を描いておいてその上を歩く、という方法がある。われわれの歩行リズムが、部分的にではあれ、路面にある見えのリズムに同調していることを利用する治療法である。
 
ベルンシュタインの提案した第二の解法は、運動に起こる変化、つまりその発達が、 運動を構成している、より「小規模の運動」間の関係によって生じてくるとする考え方である。
 
この発想をこれもパーキンソン病のリハビリに応用した試みがすでにある。ゆっくり歩くことから、速く歩くリズムへとうまく移行できない患者の両脚の交替運動を改善するために、二脚の運動に、両腕の交替運動を「付加する」。

つまり通常の歩行において加速という変化を可能にしている下位運動の一つである、両腕のリズミックな交替運動を、全身の動きのシステムに「投入」する。
 
大きな協調システム(この場合、高速の歩行)を可能にしている下位運動を身体に観察し、抽出し、それを大きなシステムに「投げ入れる」ことで、うまく動けていない運動全体を変化させるという方法である。』

佐々木正人『知覚はおわらない』青土社(2000)

3.環境も丸ごと取っておく

ちょっと話はズレますが、ここで書かれている「環境ごと記述する」という方法は、非常に大切なことだと私は思います。

私も講座などで「何かとても大切な気づきが訪れたときには、そのときの状況も含めて丸ごと取っておいてください」と言ったりしています。

「大切な気づき」って、何かふとした瞬間に訪れますよね。

そのときに、私たちはついその「大切な気づき」そのものの言語化に腐心してしまいがちですが、そのときのその場の環境全体を丸ごとそのまま取っておくことが、後々に続くさまざまな気づきを育む土壌になるような気がするのです。

何か大事な気づきが訪れたときの「夕暮れ時の踏切待ちの光景」であったり、「窓から入る風と聞こえてくる街の音」であったり、「いま炬燵に入って剥いている蜜柑の香り」であったり、そんな環境も含めた総体としての丸ごとの私と気づきとは、決して切り離せないものだと思うのです。

それは植物の植え替えをしようというときに、できる限り根の周りの土ごと植え替えるのと同じことです。一見ノイズにしか感じられないような微量要素や微生物叢が、その全体を支えている可能性だってあるのですから。

ですから「気づきを保存する方法」として、気づきそのものに名前を付けるのではなく、そのイベント(事件)全体に名前を付けて丸ごと憶えておくことをオススメするのです。

それで誰かに話すときには、必ず「話せば長くなるんだけど…」と前置きをして、全体をハナから仕舞いまで語り直すこと。それができないならば、むしろ語らない。

その都度思い出しながら語ることになるので、語るたびに物語が揺らいで細部が変化するでしょうが、それで良いのです。それが良いのです。気づきが息づいている証拠です。

端折って語れば、その分何かを捨てているのかも知れないと、そんな風に思った方が良いでしょう。

端折って語っていれば、そのうち慣れた語り口が染み付いてきて、ストックフレーズ(凍った語り口)となって、語りやすい持ちネタにはなるでしょうが、そこにあった気づきはやがて呼吸をやめ、新たな気づきを生み出すことのない、化石標本のようなものになってゆくかも知れません。

4.さらに複雑なシステムに組み込む

閑話休題。

それで話をベルンシュタインに戻すと、ここでベルンシュタインが提案しているのは、「複雑な身体のシステムを、もっと大きくて複雑なシステムに組み込んだものとして捉える」ということです。

切り離して個別に考えた方が取扱いしやすくなりますが、あえてそれをしないということです。

とくに第二の解法として紹介されている「小規模の運動をより大きなシステムに投げ入れる」ということなど、それをさらに積極的に行なおうという提案でもあります。(これについてはまた別で触れたいと思います)

ふつう、複雑な難問を解決しようと思ったら、できる限り単純に簡単にして捉えやすくしようと、誰もが考えると思います。

けれども、ベルンシュタインは全く正反対の解法を提示するのです。

「もっと大きくて複雑なシステムに組み込め!」と。

「そんなことしたら、ますます複雑になってワケ分からなくなるじゃないか!」と、誰もが考えると思います。私も思います。

けれども現実のリハビリにおいて、それによって運動の巧みさが取り戻せるということもまた事実なのです。

そして興味深いことに、「より複雑にしたらうまく協調しはじめる」という、このなんだかとっても分かりづらい現象は、さまざまなところで確認されていることでもあります。

『ロジスティック・マップは構造不安定性を持っており、 パラメター(原文ママ)を無限の精度で設定しない限り、運動を制御することができない。ところが、そのロジスティック・マップを多数連結したシステムでは、パラメターの組合せを決めると、ある種の運動のありかたを安定的に取り出すことが可能となる。つまり、構造不安定な素子を結合したシステムに、構造安定性が見られるのである。
 
あるいはまた、ある種のカオスにノイズを加えることで、秩序を創り出すことができるという観察が知られている。「ノイズがある」ということは、カオスになんらかの「外部」が接続されている、ということであり、カオス単独の場合よりシステムは複雑になっている。ところが、カオス単独の場合よりも、「カオス+外部」というより複雑な場合の方により高い秩序性が見られるのである。』

安冨歩『複雑さを生きる』岩波書店(2006)

こころやからだに失調をきたしてしまった人に、のんびりした田舎の古民家みたいなところに住まわせ、ただ動物の世話をさせたり、畑で作物の世話をさせたりするだけで、健やかになってくるということがありますが、それもまた「より大きくて複雑なシステム(自然)に放り込んでみただけ」と言えなくもありません。

秩序の乱れた「一つの系」があったときに、そこに外部からちょっとしたノイズを加えたり、あるいは外部である「ほかの系」と繋いでみたり、一見さらなる混乱を引き起こしそうなことをすると、逆にある種の秩序が浮かび上がってくるということは、大変興味深いことです。

5.指導者の素質

閉じて無秩序となっている「閉鎖系」の殻を開いて、外部と繋がれた「開放系」へと移行させると、そこにある種の新しい秩序を生み出そうとする働きが発現するということ。

そうなのです。

「あなた」という複雑な事態に私ができることは、もっと複雑なシステムの中に「あなた」を組み込むことなのです。

「あなた」という複雑な事態を「閉じた系」からまず「開かれた系」へと導き、それを「私」という外部の系と結び付け、さらには「場」というより大きくて複雑な系に組み込んで、上位の協調作用の中に巻き込んでいくこと。

私はそのための触媒であればいいのです。私の語る言葉や触れる手は、そのきっかけであれば良いのです。私はその大きくて複雑な系の一部でしかないのです。

そのとき「私」が何らかの意図を持ってどうこうしようとすることは、必ずしも良い結果をもたらすとは限らず、ひょっとしたらより大きな系による協調作用をかき乱すことにしかならないこともあるのです。

それを避けるためには、より大きな系に対する理解と信頼と委ねが不可欠でありましょう。

私は、その「より大きな系に対する絶対的な信頼」というのは、指導者にとって必要不可欠な素質であると思っています。

その絶対的な信頼は「私」から余計な力みを限りなく消し去ってくれます。

水の流れを乱さずに水底にある小石を拾い上げるような、賑やかな子どもたちが気づけばじっと耳を澄ませているような、ちょうど自分のいるところにボールが転がってくるような、そんな身の処し方ができるようになれたら、それは本当に幸せなことです。

そしてそういうことって、じつは手の方が知っていたり、足の方が分かっていたりすることなんですよね。あるいは子どもの方が知っていたり、ネコの方が分かっていたり…。

世界はつねに何かを教えてくれています。開いておきましょう。

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