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「問いを立てる力」を育む

たとえば眼の前にリンゴが一つあるとします。私たちはそのリンゴを手にとってさまざまな角度から見ることができます。

くるくると動かしながらさまざまな角度からリンゴを眺めてみると、 リンゴはじつにさまざまな様態を示します。上から眺めてみたリンゴと、横から眺めてみたリンゴと、下から眺めてみたリンゴでは、どれもすべて違った姿形に見えることでしょう。

もっと言えば、見る角度を1ミリ変えただけでもリンゴの姿は変わってきますから、正確にはそこに同じ姿を見ることは二度と無いかも知れません。

そうなると、事実上リンゴは無限に形を変えながら私たちの前に存在しているかのように見えます。

そのとき私たちは、「このリンゴは実にいろんな形に変形して、とても曖昧で漠然とした存在である」と思うでしょうか?

そんなことはありませんね。私たちは、さまざまな角度から無限に形を変えていくリンゴを見て、そこに変わることのないたった一つのリンゴを見出すのです。

私たちの認知機能は、目の前で無限に変化して見えるその様態から、たった一つの変わらない不変項を見出して、その本質を捉えるようにできているのです。

しかも、さまざまな角度からの「見え方」の多種多様なバリエーションを集めれば集めるほど、私たちはより正確にその本質を捉えることができるようになります。

リンゴをただ一つの視点から見て、「これがリンゴか!」と認識するのと、さんざん動かしながらさまざまな角度からじっくり見て、「これがリンゴか!」と認識するのでは、その認識の奥行きみたいなものがずいぶん違うのではないでしょうか。

しかも実際には、目で見るだけでなく、手で触ってみて、匂いを感じてみて、重さを感じたり音を聞いたり、そして囓ってみたりしながら、より多様な側面からリンゴと出会うことができるのです。

学習や教育において、「効率化」ということもよく考えられるテーマだと思いますが、ともすれば、ある一つの視点から見たリンゴを見せて、「これがリンゴですよ。覚えましたね?」というようなことをやってしまっていることがあるかも知れません。

確かにそれで「リンゴとはこういうものだ」という知識としては覚えられたかも知れませんが、何というかそこでは「リンゴと出会い損ねている」ような気がしてなりません。

教育という観点から考えたときに私たち大人がやるべきことは、子どもたちに「リンゴとはこういうものだ」という結論付けをさせることではなく、子どもたちが「リンゴって何だろう?」と疑問を持って、「リンゴと出会い続ける」ようにさせてあげることではないかと思うのです。

物事はいろいろな関わり方をすればするほど、いろいろな面が見えてくるものです。よく知ったつもりでいることでも、普段とは違った関わり方をしてみるだけで、まったく違った面に気づかされます。

そうやって、世の中のさまざまな物事は到底一面的に把握しきれるようなものではなく、関われば関わるほど、さまざまな面が見えてきて、その豊穣性は限りが無いのだという事実に気づいていくこと。

それはある意味、「正解を求める能力」よりも「適切な問いを立てる能力」を重視する教育であると言えるかもしれません。

「解を出すこと」はゴールがあってそこで運動が終わりますが、「問いを立てること」はどこまでもその運動が終わることはないからです。

それこそ、子どもの「どこまでも続く学びの構え」を育む教育であるのではないでしょうか。

子どもの中にその構えを育むことさえできれば、「教育を施す」という意味での教育は終了したと言えるでしょう。

何故ならその子どもの中ではもうすでに「自己教育」として、学びが自ずと起動し続けるようになっているからです。

つまり、物事を知れば知るほど、「自分がまだ何も分かっていない」ことに気づかされて、そしてもっと知りたいと思うのです。

その学びの循環は、物事の本質と出会うまで内発的に起こり続けますが、本質というものは捕まえたと思うや否やさらなる奥行きを見せてくるものですから、結局学びはどこまでも終わりません。そしてそれはつねに新鮮であり続けます。

学びって本来楽しいものです。「学ぶって楽しいな」。子どもにはそんな単純な事実から学びと出会っていってほしいものです。

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