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贈与の霊がつなぐもの

マルセル・モースの『贈与論』の中に、ニュージーランドのマオリ族の人たちが「ハウ」と呼ぶ不思議な力についてのお話があります。

それはどんなものかと言うと、例えば自分が誰かから何かの贈り物をもらい、そしてそれをまた誰か別の人に贈ったとします。

しばらくして今度は逆に、贈り物をした相手から御礼として何か別の物を贈られたとしたら、それは自分が贈った贈り物の霊であり、それを「ハウ」と呼ぶのです。

そのハウは、自分が贈った物の霊であるのと同時に、自分が初めにもらった贈り物の霊でもあるので、それは自分の手元にとどめておいてはならず、最初に自分に贈り物をしてくれた人に遡って返さなくてはいけないものとされます。

ハウとは豊かな森の霊であり、姿を変え、所有者を替えていくことで、より豊かに価値を増してゆくものとされるのですが、もしそれを自分のために手元に取っておくならば、それは災厄をもたらすことになると言うのです。

私はこれを読んだときに大変興味深いなと思うのと同時に、私たちの社会における「貨幣」というものの仕組みについて、非常に考えさせられました。

貨幣は「移動する物品と反対向きに移動するモノ」という意味で、マオリ族がハウと呼ぶモノとよく似ていますが、どこか違う性質を帯びています。

貨幣は、物品を受け取る際にその場で精算するために等価分を支払うという形で、私たちの経済活動を成り立たせています。

そこで働いているのは、いわゆる「等価交換の原理」です。

貨幣の持つ「等価交換の原理」が、お互いの損害のリスクを回避するために、その場で精算をして取引関係を解消することを指向しているのに対して、マオリ族のハウと呼ばれる「贈与の霊」は、そのやり取りがただの等価交換となって終わってしまわぬような仕組みが働いています。

つまり「とどめると災厄が訪れる」とか「遡行することで価値が豊かになってゆく」とかいうしきたりがあることで、やり取りがその場限りで終わらないような、そのやりとりに関わった人をもう一度つなぎ直すような、そんな性質を持っているのです。

「貨幣」はその場でやり取りを精算して関係を解消させようとし、「ハウ」はその場でやり取りが終わらぬよう関係を継続させようとしています。

両者は一見とても似たような性質を持ちながら、まったく異なる指向性を持っているのです。

それは「交換」と「贈与」の根本的な違いでもあるでしょう。

私たちの社会でも、贈り物を頂いたときにすぐさまその場で御礼の金品を差し出すというようなことは、あまり良いマナーとはされません。

なぜならそれは「あなたの贈り物は私にとってこれくらいの価値ですね」とただちに査定し精算しているということに他ならず、相手の「つながりたい」と願いを込めた贈与の霊性を剥ぎ取って、その場で関係を解消しようという「縁切り」に貶める行為となってしまうからです。

「精算(等価交換)」とはつねに、「あなたとは何の貸しも借りもありませんよ」という、関係のご破算を意味するのです。

私たちが人から贈与を受けたとき、「こんなにして頂いて、なんと御礼を申し上げればいいか…」とお辞儀をしながら恐縮し、ことさらに自らの返礼能力の無さをアピールするのは、「あなたの贈与は、私が全身全霊を込めてもまだ足りないほどに偉大です」 という精算不能の意思表示をするためなのです。

それは、謙遜しながら己の身を引くことで関係の落差をあえて強調し、そこに潜んでいる「ハウの霊力」を言祝ぎ増大させるための儀礼的な身振りだと言えます。

「こんなにして頂いてスミマセン…」「いえいえ、そんな…」という日本人が見せるその一見メンドくさい儀礼的風習は、まさしく人類学的な儀礼であり、それは共同体をつなげる「ある巡り」を途絶えさせまいとする生活知であるのです。

そうして私たちは、一度生まれたその「借り(恩)」の落差を、決して清算し尽くしてしまわないようにすることによって、 次なる運動を生み出すためのきっかけとしているのだと思います。

現代社会は、ほとんどすべての営みが貨幣で済まされる時代になってきました。その中で私たち現代人はその便利さを享受しつつも、どこか裏腹な虚無感のような、倦怠感のようなものを感じているのではないでしょうか?

それはひょっとして私たちの社会活動が、貨幣による等価交換に比重を置きすぎたことによって、「贈与の霊」を追いやってきてしまったせいなのかも知れません。

「黒字が良いこと」「儲かることが良いこと」という価値観ばかりが取り上げられがちな現代、それは「流れを堰き止めて一部にとどめること」であって、「全体的に見れば別に良いことではない」という、至極当たり前なことが忘れられがちです。

何しろ政府までもがそんな考えで国を運営しようとしているのですから、すべての巡りが停滞していって当然のことです。

マオリ族の人たちが見れば、そこに災厄を招く不吉な気配を感じることでしょう。何故そんなことに専念するのか理解できないかも知れません。

貨幣によって数値化された等価交換だけでない関係性、つまり贈与をしたりされたりしながら、「借り」や「恩」という落差がぐるぐると巡り続ける関係こそが、私たちにエネルギーを与えてくれるという文化的叡智は、もう一度きちんと考え直してみる必要があるのではないかと思っています。

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