連綿とつながる人の仕事
以前、山の中で行なわれていたイベントに行ったとき、その山の持ち主で、そこで林業を営んでいる方とお話しする機会がありました。
その方は、目の前にある高さ5mほどの木を指差しながら、「このヒノキは10年前に植えたもので、あっちの大きなヒノキは40年くらい前に植えたものです」と言います。
ご本人は50代くらいの方でしたから、その大きなヒノキが植えられたのはおそらく当人が小学生くらいの頃のことでしょう。ですからきっとその方のお父様かあるいはお祖父様が植えられたのかも知れません。
見渡すとその山の斜面にはいろいろな高さの木が植わっていて、おそらく連綿と続いてきたであろう、その方のご一家の「木を植える仕事」に思いを馳せました。
私はその「世代をまたいで引き継がれていく仕事」に感銘を受けるのと同時に、仕事に取り組むときにそれくらい射程の長い観点で物事を見る姿勢が、現代ではずいぶん少なくなってしまったかもしれないということを、しみじみ考えました。
現代の多くの企業は株式会社という形を取っていて、株式会社というのは四半期ごとに業績を数字で出さなければなりません。その数字如何によっては株主に突っつかれますから、株式会社で働く人たちはとにかく四半期ごとに数字を上げなければと、駆け足で走り続けるような時間の流れの中にあります。
それに対して林業という営みは、木を植えてからそれがお金になるまでに何十年という時間が掛かりますから、3ヶ月ごとに数字を出しながら評価され続ける営みとは、その時間の感覚がまったく異なってくるでしょう。
何しろ場合によっては、植えてから伐採してお金になるまで何世代にも掛かってくるような、そんな長さにもなるのです。
林業においては、先代や先々代の植えてくれた木を伐採することで生活の糧を得て、そして未来の子孫のために木を植える、という時間的分業とも言えるような長いスパンの仕事のサイクルです。
凄いことですね。だって、自分の生活を支える仕事がすべて「自分のおかげ」でも「自分のため」でもないのです。
いま自分が生活できているのは「過去の誰かのおかげ」であり、そしていま自分が仕事をしているのは「未来の誰かのため」なのです。
そこには自分一代では収まることの無い、連綿とつながる仕事の流れというものがあります。
でも本来、あらゆる仕事がそうであるはずなのです。いや、仕事だけではありません。私たちの生活の全てがそうなのです。
部屋のスイッチを入れれば電気が付き、蛇口をひねれば清潔な水が出て、外に出れば道路がどこまでもつながって、どこか遠くへ行きたいときも電車や飛行機があちこちまで運んでくれます。
市街地を離れれば、どこまでも続く田畑に用水が張り巡らされ、そこで風に吹かれて揺れる美しい作物たちは、やがて私たちみんなのお腹を満たしてくれる美味しいご飯となるのです。
それらはすべて、何十年何百年も前の人たちから代々受け継がれてきた仕事の積み重ねによって支えられていることであり、無人島で自給自足の生活をしているのでも無い限り、その恩恵を受けていない人間など一人もいないのです。
そのように先人を想うということは、過去を振り返るだけの行為なのではなく、過去から現在の自分を通して、さらに未来へとつながる時間の流れを想うことでもあります。
つまり、現在の自分につながる遠い過去まで空想することのできる者こそが、反転して遠く未来へと空想力を投射することができるのだと思うのです。
目先のことだけ、自分のことだけ、仕事と言えばお金のことだけ、そんな射程の短い空想力しか働かなければ、遠い過去の先人たちの苦労も、遠い未来の子どもたちの苦労も、まったく空想することはできなくなってしまうでしょう。
父母の仕事を想うこと。祖父母の仕事を想うこと。
連綿とつながる人の仕事をつないでいってくれる人に頭が下がります。
一度途切れたら、もう一度立ち上げつなげ直すのにまた何十年かかるか分かりませんからね。