#25 【宰相への道】三日月
以下は、我が自叙伝の『敢闘』より抜粋したものである。
私が政治家を明確に自身の使命だと認識したのは、一浪目の晩夏である。
実際は、それ以前、14歳の頃から外交官や外務大臣を志していたが、それは単なる願望であり、明確に、政治という世界に足を踏み入れることを覚悟したのは、18歳の頃であった。
当時は20歳からが成人という扱いで、私はまだ自称、他称、ともに半端な一人の少年に過ぎなかった。
私も、かつて、諸君らと同じ階級であった。
しかし、そんな半端者の私でも、埼玉県の蕨市や戸田市のクルド人を始めとする外国人問題の解決は急務であると、同地域に引っ越して来て即座に理解することができたのだった。令和2年、西暦にして2020年の出来事だったわけだが、それ程までの惨状だった。恐らく、現在では、もっと乱れていることだろう。
私は一浪目の年末頃までは、埼玉県にある予備校の寮で生活していた。本当は御茶ノ水にある予備校の近所で生活したかったのだが、私は後期試験まで受験し、滑り止めへの進学の是非を両親と話し合っていたこともあり予備校の入学を決めたのが遅かったという都合上、立地の良い寮には定員締切ゆえに応募ができず、埼玉県に住むことになった。
正直、不満であった。早期に戦いを放棄して入寮を決めた人間が良い場所に住み、最後まで受験を戦い抜いた私が予備校から50分も離れた場所に住むという不条理さに。
といっても、特段の不満があるわけでもなかった。
食事も出て、身内による監視も無く、自由にそこそこの都会で生活を久しぶりに送れる身となったことは、むしろ、私にとっての花の時間だった。浪人という身分であるわけだから、勉学に励むことが第一だと私は考えていたし、諸君らもそう思うだろうが、次第に、寮と実家と一人暮らし先とを行き来する中で、遊びの方に熱中してしまっていた。あまり褒められたことでは無いが、というより条例・法令違反ということになるのだろうか、当時は、御茶ノ水駅周辺で、単身あるいは友人らと帰宅しながら酒を飲むのが日課となっていた。
以上のように、自堕落な生活ぶりを振り返ってみると、とても不思議だ。あのような生活態度で、成績がみるみる上がっていたのだから。そして、人格的にも大きな変革の時を迎えることになった。アリストテレスが言ったように、人間が人間でいるためには、労働よりもschole(schoolの語源、ここでは、「暇」の意味。)こそが重要だと、今でも思う。
しかし、実際は、ここでの経験が、当時の私を、つまり、帝国の再興を歴史に刻むことになる大宰相のタネを、育てる水であり肥料であったということは、ここに記しておく。
さて。
話を戻すが、埼玉県の蕨市や戸田市などの埼玉県南部の地域におけるクルド人を始めとする外国人問題の解決は、私が同地域にて生活していた令和3年夏頃から対策を講じねばならないと考えていた問題であった。
メディアが報じるようになったのは、令和5年の暮れから令和6年になりかけの頃であり、この犯罪的な遅延は、この地域に3000人ものクルド系居住者をもたらした。
著名人のどうでも良い情事や海外のニュースを翻訳して垂れ流すだけの番組を製作する暇があるのならば、まず、目下急を要する課題に目を向けるべきではないか。
なぜもっと早く報じなかったのだろうか?
令和3年の夏、私は、その地域に一時的に住むことになり、そういう都合上、住居の周辺を徒歩で散策していた。いつもの癖で、知らない土地に来たら、まず、探検をしてしまうのが私だ。
自転車を手に入れてからは、隣接する街にまで足を伸ばすようになった。また、当然、浪人生らしく予備校にも通っていた。
予備校、私が通っていたのは駿台だが、当時は新型コロナウイルス感染拡大防止措置が大々的にとられており、教室や自習室の利用が大幅に制限されていて、2 週間に1度しか予備校には行くことができなかった。
そのような事情で、私は、散策をしたりや友人の家に入り浸っていたりといった生活を送っていた。
ここで余談だが、私の通っていた駿台とライヴァル関係にある河合塾は、5月から授業を再開しており(駿台は10月頃から再開した)、この5ヶ月の差によって、河合塾は、東大への合格者数で大きく差をつけて駿台に勝ったらしい。
散策や予備校から帰る時間帯は、ほぼ毎回夜であり、門限の23時間際になることも度々あったが、その度に思ったことがあった。
なぜ日本語が聞こえてこないのだろうか?
調べてみると、蕨市はクルド人、戸田市は支那人朝鮮人クルド人ヴェトナム人、これらが全国でも突出して多い地域だということ、そして、このクルド人が多く居住する同地域がワラビスタンと呼ばれているという現状を知った。
しかし、それを知った当時は、喫緊の課題だとは思えなかった。なぜなら、彼らは同じ人種間でコミュニティを形成し、我々大和民族とは一線を画しているため、関わる機会が無かったからだ。
諸君らは、ヨークマートというスーパーを知っているだろうか?
私は知らなかった。ある日、寮から自転車で数分の距離にあって便利ということを友人に教えて貰ってから、私はよく利用していた。
そこでアルバイトをしていた女性の容姿に惚れてしまった。彼女は彫りが深く、少しクセっ毛の黒髪で、元気な子だった。
私は誰にでも話しかける人間であったから、レジ打ちの際に何回か話しかけ、アルバイト終わりにプライヴェイトで会うことになった。
詳細は省くが、彼女のアルバイト終わり間際に買い物を済ませ、少し待ち、彼女と一緒に帰り道を歩くということが何回かあった。
話をするうちに、私の二個下で、商業高校に通っていると知った。大人びていたから歳上だろうと思っていたが、違った。家庭の事情が複雑だと少し話していたので、あまり深くは聞かないでおいた。
予備校の試験で帰宅時間が普段より早かった日に、何回か遊びに行った。
政府の緊急事態宣言によって飲食店が軒並み閉店しており、カラオケやネットカフェも、昼間にも関わらず、ほとんど閉まっていた。
ある日、チェーン店ではないカラオケ店に行ったが、会員証を作る必要があるとのことで、フルネームを書かされた。2人のうち片方だけで大丈夫という事だったので、ジャンケンをして彼女が作ることになった。その際、名前は漢字で大和民族風のものであったが、苗字は、カタカナだった。つまり、クルド人との混血、または純粋なクルド人の子供であったわけだ。今思えば、最初に出会ったスーパーで付けていた名札が、他の店員は苗字だったのに対し、その子は名前だったのだが、私が彼女にその理由を尋ねた時の、彼女の答えづらそうな態度で気付いておくべきだった。
正直、全く気にしなかった訳では無かったが、友人として付き合う上では何も問題は無いと思った、そして、むしろ、異国の人間として、興味の対象になっていた。
カラオケから出て、途中まで帰り道が同じだったので、彼女と一緒に歩いていた。すると、梅雨の頃であったからだろうか、突然大雨が降り始め、彼女の家で雨宿りをすることになった。彼女からは、前もって、家の中は散らかっていると言われたが、雨宿りさせてもらっている以上は文句は言えないと思い、「雨よりはマシだと思う」と返した。
しかし、実際、散らかっているどころの話ではなく、歩くだけで床が軋む廃墟同然の建物の一室を改造し、自動販売機1台分ほどの広さの部屋が3つあるだけで、机やタンスやクローゼットはなく全てダンボールの空き箱、恐らく育児放棄の親のものとみられる煙草の吸殻が山積みになっておりその匂いが充満していた。正直、これ程までに酷い環境だとは思っていなかったので、頭の中で処理が追いつかず、これは何かのドッキリなのかと疑いたくなるほどに嫌悪感が湧き出して来た。
育てているのは母親とのことだったので、いくつか質問をしたところ、父親がクルド人で、離婚後は母親は水商売、彼女はアルバイトで生計を立てているとの事だった。酷い話だ。異人種間での混血、離婚して自由になった父親によって、また新たな被害者が生まれる。日本国籍を得るためにこのような犯罪的行為を経て大和民族を穢したことは、許されることではない。今思えば、彼女も、私が彼女に惹かれていたことを知っていて、接近してきたのかもしれない。しかし、彼女は被害者だ。ちなみに、断っておくが、彼女とは、もう縁を切っている。
これ以上、被害者を増やさないように、私は政治家として生きていくことを明確に意識したのだ。
これは、とあるアプリの購入履歴だ。私は、クルド人達と対話を行うため、独自にトルコ語やイスラームに関する習俗を学ぼうと考え、トルコ語の辞典や文法書、それに加え、イスラームの聖典のいくつかを購入した。私のトルコ語が不十分だったため、最初は翻訳アプリを使いながら対話することを試みたが、不可能だった。彼らには、対話する気など無かったのだろう。
我ら太陽の民は、三日月の民とは分かり合えないのだろうか?
政治家になって日本を変える、様々な面において。私はそう誓った。
これを以て、私は、移民問題の解決が日本の喫緊の課題であると認識した。私の中の一つの柱が誕生した瞬間である。
そうこうしているうちに、一浪目の夏は終わり、秋が始まった。受験が本格化する季節である。