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(後編)東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』を理解したい
前編
前編の振り返りと後編の内容について
前編では、東浩紀さんの『ゲンロン0 観光客の哲学』の中からカントについて書かれた部分を参照しつつ、国際社会がうまく成り立つためにはそれぞれの国の政治が "成熟" した上で、国連のような機関を通じて成熟国同士が対話をしていくことが有効なのだという説について紹介しました。
しかし東さんはこの説には弱点があるのだと指摘し、それをヘーゲルからカール・シュミットにいたるドイツ思想の流れを追いながら説明しています。
ただそこにいく前に、少し僕の私見をはさむことで、僕と同世代だったり似たような知識水準の人たちにもわかりやすく伝えることができないかなと考え、僭越ながら本に書いていない内容を、補助線として書き加えようと思っています。
日本は12歳の少年のように未成熟
この本では言及されていませんが、僕が読みながら連想したのは戦後日本を占領統治したGHQのマッカーサーがアメリカの議会で「日本は12歳の少年のようだ」と発言したことです。
これは単なる悪口ではなくて、敗戦国のドイツと日本をそれぞれどのように統治していくかを議論する中で発言されたもので「ドイツを45歳の成熟した文化を持つ国とするなら、日本は12歳の少年のようだ」とたとえつつ、それぞれの国に対して別々の策を用いる必要があるんだということが言われています。
カントは前編で紹介したように、国が成熟して一人前になることが世界平和を実現するための条件のひとつになるとした。
しかしマッカーサーの議論ではドイツは成熟したのにも関わらず、戦争や民族虐殺をおこなったことになる。
だとしたら成熟するというのは良いことなのか悪いことなのか、一般的には良いことだと思われているけれどほんとうにそうなのか?といった疑問を出発点にすると、この後の話が理解しやすくなるんじゃないかと思っています。
ヘーゲルのいう成熟
ここからは本の内容に戻ります。
著者は戦前のドイツがどのように成熟していったのかについて、18~19世紀のヘーゲルと20世紀のカール・シュミットの思想の流れを追いながら説明しています。
ドイツの思想家ヘーゲルは、国が成熟するということは、ある人間ひとりが精神的に成熟することと、互いに関連し交わりあっているものだと考えていたようです。
ヘーゲルによれば、人間は生まれたときにはとうぜん未熟な存在であり、家族の中で満たされた状態を感じているといいます。
やがて成長するとそこから抜けでていき、自分の思い通りにならない他人や社会との関係の中で生きていくことになるといいます。
しかしこの、社会と自分の目的とのあいだで葛藤している状態は、まだ精神が未熟な状態なのだといいます。
じゃあどうすれば成熟できるのかというと、ヘーゲルの答えは "国の一員になること" でした。
これは職業とか納税とかの話ではなく、むしろ精神的な自己意識の問題のようで、抽象的な言葉でいうと公的=国家的な意志を私的な意志として内面化することが人間の成熟なのだと考えられたようです。
そのイメージを僕なりに図にするとこんな風になります。
![](https://assets.st-note.com/img/1738011966-XTU1AjNOclCsywzgI4LK2D0f.jpg?width=1200)
ちょっとわかりづらいかもしれませんが、ヘーゲルのいう未熟な状態というのは、鏡で自分の姿を見るように、自分自身の目で自分を見て「これが自分なんだ」と実感するようなものに思えます(図の左側)
一方でヘーゲルのいう成熟した状態とは、鏡の代わりに "国" という巨大な人間のようなものに乗り移って、巨大人間と自分(を含む他大勢の人々)との一体化を感じたうえで、その巨大人間の目を通じて自分を再確認するような、そういうものに思えました(図の右側)
僕はヘーゲルの本を直接読んでいないのでニュアンスを読み誤ってる部分があるかもしれませんが、東さんによれば重要なのはこのようにヘーゲルが人間は個人としてではなく国の一員にならなければ成熟できないと考えていたことだといいます。
なぜそれが重要かというと、このヘーゲルの人間観・国家観を突き詰めると、ナチス・ヒトラーの理論的な裏付けになった20世紀の思想家カール・シュミットの考え方につながるからだといいます。
カール・シュミットの友敵理論
これまで見てきたカントやヘーゲルの考え方では、成熟というのはバラバラの個人がまとまってひとつの巨大人間のような存在をつくりあげ、その巨大人間に乗り移るようなかたちで、自分とその存在を一体化させることでした。
カール・シュミットはそれを更に突き詰めていき、巨大人間の内側と外側の区別(たとえば国民か非国民かという区別)がどのようにできていくのかを考えます。そしてその基準が、個人的な損得や好き嫌いなどとは関係のない、まったく独立した価値観に基づいているという理論を提唱しました。
たとえば、この図の左側の状態では、まだ内側と外側の区別はありません。あなた(黒色)の周りには、好きな相手もいれば嫌いな相手もいるし、尊敬する相手もいれば軽蔑する相手もいる。
![](https://assets.st-note.com/img/1738088929-O9K58duE1GN7ZM6nIlaUVJzh.jpg?width=1200)
しかし右側の状態では、あなた個人にとっての好き嫌いとはまったく別の次元で、その巨大人間にとっての "仲間か他者か" という区別が生まれる。
この時点で、あなたはヘーゲルの言う未熟な個人から成熟した国の一員になったといえます。そうして巨大人間と一体化した自己意識を持ったあなたは、右側の円にいる人々を "あなた自身の一部" と感じ、左側の円の人々を "あなた自身の外部" と感じるようになるわけです。
これが究極のかたちであらわれるのが戦争で、たとえ個人的に好きな相手であっても、国同士の戦争になれば相手を殺さなければいけない。たとえそれによって個人としての自分が損をするとしても、巨大人間としての自分(その内側の人々)のことを優先する。
これがカール・シュミットの提唱した "友敵理論" のポイントだといいます。
(友敵という言葉を使うとわかりづらくなるので、なるべく使わないように表現を変えましたが、内容はおおむね本に書いてあるとおりです)
そしてここからは僕の私見を挟んだ記述になります。
現代日本を生きる僕の感覚でいえば、こういう理論はまるで戦時中の日本のようで「君たちは個人である前に天皇陛下の臣民なのだ!身を粉にして戦え!進め一億火の玉だ!」みたいな人権軽視のクソ理論にも思えます。
ただマッカーサーが言っていたように、日本とドイツの政治は大きく違っていました。日本ではバラバラの個人が自分たちの意志で天皇を代表とする国をつくっていたわけではありません。それに対してドイツのヒトラー政権は、人々が自分たちの意志を反映させて(民主的な投票によって)つくりだした政治体制です。
つまりドイツはカントやヘーゲルのいう成熟を体現していたわけで、なぜその国が "偉大なるドイツ国民" を中心とした優生思想やユダヤ人の国家規模での虐殺に向かってしまったのか。
それを説明しているのがカール・シュミットの理論で、彼らが成熟するためには国・政治という単位で線を引く必要があった。それはドイツだけじゃなく、世界のあらゆる国がやっていることです。
そうすると必然的に "一体となったドイツ国民" と "その外部の人々"という区別が生じる。そしてカール・シュミットによれば国・政治というのはその区別だけを基準として動くものなので、ヒトラーのナチス政権はその理論どおりに役目を勤めたといえてしまうわけです。
観光客の哲学の意義
また本の内容に戻ります。
そしてこれが内容紹介としては最終章になります。
これまで書いてきたことをまとめると、
バラバラの人々が集まって成熟した国をつくり、その国が集まって国際社会をつくるというカントのイメージを突き詰めると
人間個人と国が一体化することで成熟が実現されるというヘーゲルの理論につながり
国・政治の基準である友敵の区別は個々人にとっての価値よりも優先されるというカール・シュミットの危険な理論につながってしまう
この袋小路に対抗するために東浩紀さんが注目したのが "訪問権" です。これは前編の最後に書いたように、もともとカントが平和のための国際社会の理論とあわせて提唱していたものでした。
東浩紀さんは自身が提唱する観光客の哲学を、この訪問権と共通するところが多いものだと説明していて、その特徴は国や政治という軸とは別に、商業的なつながりを意識した別の軸を与えるものだといいます。
さいごに
…ただここまで読んでくれた方には申し訳ないのですが、この先の話については僕の頭ではうまく理解できておらず、記事としてまとめることも難しそうです。
なのでここからは、ある程度おおまかなイメージだけを表現しつつ、過去の自分の誤読を訂正して終わりにしようと思います。
まず僕の3年前の誤読というのは、観光≒海外旅行≒外国にひらかれているといった言葉の印象などから「ヘーゲルのように個人が国に属する時代は終わって、自由でグローバルな時代が始まったんだ」という浅い受け取り方をしてしまったことが原因です。
ただこれはある意味では正しくて、ヘーゲルやカール・シュミットの時代に比べると、人やモノが国境を越えて行き来することは格段に多くなり、国民と国民以外との区別はあいまいになっているはずです。
でもその時代の変化の実感と "観光" の印象を結びつけた結果、映画『GO』の窪塚洋介よろしく「国境線なんて俺が消してやんよ」というグローバリズム全肯定の話として受け取ってしまったことが僕の失敗で。
本来この本で語られていたことというのは「国に属する時代が終わるわけではなく、グローバルにつながる時代と同時並行で存在する」という二重性をどう表現するかという話だったんですね。
![](https://assets.st-note.com/img/1738100155-RNrOYH1LGZnAzVF5JoChtSkP.jpg?width=1200)
図でいうと、この青い側(グローバリズムの世界観)だけをつまんで読んでいたのが過去の僕なわけです。つまり本の目的とはまったく正反対の読み方をしてしまったわけ。ほんとに反省してほしい。そのせいでこんなに苦労して長々と記事を書くことになってしまったんだから。